村田京子のホームページ – blog

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IMG_0001先日、難波の高島屋で開催されている「瀬戸内寂聴展」に行ってきました(ポスター)。昨年99歳で亡くなった寂聴さんの生涯およびその作品や原稿、ゆかりの着物や寂聴さんと交流のあった著名人の言葉など、様々な品が展示されていました。21歳で見合い結婚して夫の任地、北京に渡り、女の子を出産。夫の教え子の青年と不倫をし、夫と3歳の子どもを残して二人で京都に出奔。夫と離婚した後、上京し、本格的に小説を書き始め、少女小説でデビュー。その後、『花芯』で奔放な性を描き、ポルノ小説、「子宮作家」のレッテルを貼られるようになります。文芸雑誌からは執筆依頼はなくなりますが、『婦人公論』などの雑誌・週刊誌に作品を発表。作家の小田仁二郎に師事し、彼と不倫関係になります。小田と元夫の教え子との三角関係の恋愛を描いた『夏の終わり』で作家としての地位を確立します。彼女はその点では、私小説作家と言えるでしょう。ただ、男性作家が私小説においてどんなに自堕落な生活を描いたとしても許されるに対して、女性作家の場合は、当時のジェンダー規範に反するがゆえに、風当たりが強かったと想像できます。彼女はさらに、井上光晴とも不倫関係を結びますが、井上との関係を断つために51歳の時に出家を思い立ち、今東光の元で出家することになります。出家してからは小説よりもむしろ、『源氏物語』の訳で有名だったような気がします。さらに、寂聴庵での法話が人々を惹きつけたのは、激動の半生を生き抜いた後の悟りの境地によるもののように感じました。死ぬまで執筆活動を続けた寂聴さんの心意気にもあやかりたいものです。

Written on 9月 23rd, 2022

IMG_00019月5日に、Claudie Bernardニューヨーク大学教授が早稲田大学で「19世紀フランスの歴史小説――重ね書きされた小説」(Le roman historique français du XIXe siècle, roman palimpseste)というタイトルの講演(ポスター)をされ、オンラインで参加しました。ベルナール氏は、バルザックを始めとする19世紀文学の研究者で、歴史小説に関して、Le Passé recomposé, le roman historique français du XIXe siècleおよび、 Le Roman historique de Vigny à Rosny aînéというタイトルの2冊の著書を昨年出版され、今回の講演もそれに関連するものでした。ベルナール氏はまず、「歴史小説」を「歴史的記述(historiographie)を通して表される過去の歴史を扱う虚構の物語」と定義し、19世紀の作家は、歴史的資料や歴史家たちの文献を調べ、その豊富な参考資料を「剽窃」する一方で、ウォルター・スコットを始めとする歴史小説家たちの虚構から多くの要素を借用しており、この二重の間テクスト性(科学的・文学的)をどのように理解すべきかについて、丁寧な説明を加えながら独自の歴史小説論を展開されました。お話の中でも面白かったのは、中世から18世紀までは、「歴史的記述」は文芸(Belles-Lettres)に属し、古文書の調査・分析よりも文体の質や叙事詩的・ドラマチックな記述が称賛されていたこと、それが19世紀前半には歴史的資料に基づいた虚構が生み出され、多くの歴史小説を輩出したこと、しかし19世紀後半になると、「科学」と「文学」の二つに分かれ、「歴史」は完全に実証的な学問(「科学」の分野)のなってしまったという指摘でした。確かに、19世紀において、バルザックの『ふくろう党』『暗黒事件』『カトリーヌ・ド・メディシス』やユゴーの『ノートル=ダム・ド・パリ』『93年』、デュマの『三銃士』、フロベールの『サランボー』など数多くの優れた歴史小説が生み出されています。こうした小説は、歴史的資料に基づいて「真実らしさ」を持ちながらも、博識をひけらかす無味乾燥な文章に陥らないよう気をつけねばならず、そのためにも歴史的事実に縛られない虚構の人物が必要であったと思います。コメンテーターの小倉氏からは歴史家のアントワーヌ・ド・ベックがアルプス山脈におけるクレチン病患者の歴史について著書を著した後、歴史では掬い取れないクレチン病患者の心理分析を小説の形で行ったという興味深い指摘がありました。会場からは「歴史小説」と「風俗小説」との関係性や、フランス以外の他の国における「歴史小説」との違いなど、様々な質問が出ました。私も「歴史小説の中で、実在の人物と虚構の人物が混じっているのは、歴史および歴史的記述の空白を埋めるためではないか」と質問しました。ベルナール氏の答えは確かに、それはよく言われることであるが、バルザックの『カトリーヌ・ド・メディシス』の場合は、歴史的な文献では悪く書かれているカトリーヌ・ド・メディシスをバルザックは高く評価し、その名誉を回復させるために書いたものであり、『ふくろう党』『暗黒事件』では、虚構の人物が表舞台に現われ、フーシェのような歴史的人物は物語の裏で陰謀の糸を引く人物として登場している、とのこと。確かに『暗黒事件』でもフーシェは全く姿を現しませんが、物語の背後に潜む彼の不気味な存在を読者に感じさせます。

2時から5時過ぎまでという長い講演会でしたが、非常に充実したもので、大変勉強になりました。

Written on 9月 7th, 2022

IMG_0001先日、大阪市立美術館に「フェルメールと17世紀オランダ絵画展」を見に行ってきました(ポスター)。ドレスデン国立古典絵画館にあるフェルメールの絵《窓辺で手紙を読む女》において、女性の背後の壁にはキフェルメールュービッドが描かれた画中画が塗りつぶされていることがX線調査でわかっており、これまではフェルメール自身が消したと考えられていました。しかし、最近の調査により、画中画の上塗りはフェルメールの死後になされたことがわかり、上塗りの絵具層を慎重に取り除く作業の結果、フェルメールが描いた元の絵が現れ(右図)、それが日本でお披露目されました。女性は恋文を読んでおり、キューピッドの絵には「目の前の地面にふたつの仮面が転がっており、キューピッドはそのひとつを踏みつけている。構図のなかに愛の神がいることは本作の意味を大きく変え、偽装や偽善を乗り越える誠実な愛の証しとしてとらえることもできるようになった」(『美術手帖』より)とのこと。「真実の愛」が描かれているようです。同じ色合いの女性の服とカーテン、その光沢や、窓に映った娘の顔、テーブルに敷き詰めた布など、非常に精巧に描かれています。窓枠の青も、修復のおかげか色鮮やかになったと思いますthe_poultry_woman.gabriel_metsu01。フェルメールの作品はこれ1点でしたが、彼と同時期のオランダ画家たちの絵が多く展示されていました。特に気になったのはスリンゲラント「風俗画」で、そこには寓意が込められていること。例えば、スリンゲラントの《若い娘に窓から鶏を差し出す老婆》(左図)では、レース編みをしている女は「勤勉さ」の寓意ですが、鶏を持った老婆は男女の仲を取り持つ役目を持っており、キュービッドの像がそれを象徴しているようです。娘の足元の足温器は感覚的快楽への執着を表し、老婆の誘いに娘が乗る可能性が暗示されています。また、同じく鶏が描かれたメツーの《鳥売りの女》(右図)でも、羽をむしった鶏を売る若い娘と、黒い衣装を着た老婆の構図は、老婆が取り持ち役で、右の喫煙具を手にした男との値段交渉をしているとも取れるそうです。鶏は売春を意味するのでしょう。

その他に、ヘームの静物画《花瓶と果物》(左図)にも心惹かれました。この絵には、色とりどりの美しい花が花瓶に活けられているだけではなく、かたつむりやトンボが写実的に描かれ、ガラスの花瓶には窓が映っています。また、チューリップは1630年ごろマーケットで流行した種類のもの(チューリップの球根が高値で取引され花た)だそうで、当時の時代精神も反映されています。オランダの風景画を見ると、1996年にアムステルダム、デルフト、デン・ハーグを訪れたことを思い出し、ニシンを描いた絵を見て、ニシンのフライを食べた思い出が蘇ってきました。また、ヨーロッパを再訪したいものです。

Written on 7月 29th, 2022

IMG_0001中之島公会堂での文化講座の帰りに、大阪中之島美術館(今年開館した新しい美術館で、国際美術館の向かいに建っています)まで、淀屋橋から土佐堀川沿いを15分ほど歩いて行きました。前日からの雨は昼にIMG_0002はすっかり止んでまぶしいほどの日差しでもう夏だと実感しました。今回は開館記念特別展ということで、国内外のモディリアーニの作品を集めた展覧会(ポスター)で、彼の生きたベル・エポック時代のパリや彼の特徴的な肖像画(右写真)――細長い顔にアーモンド形の眼、しかも瞳が書き込まれていない眼、長すぎるほどの首――の数々をじっくり見てきました。意外だったのは彼の原点は彫刻であったこと、カリアティード(ギリシア建築で頭上のエンタブラチュアを支える柱の役目を果たす女性の立像)を描いた絵(左図)は、彫刻家ならではのものでしょう。それとピカソも大きな影響を受けたアフリカのマスク(モディリアーニの場合はとりわけ細長い顔のマスク)の影響も受けて、細長い顔に細い眼という彼独自の女性像が生まれたようです。彼は、パリのモンパルナスに集まったエコール・ド・ピエロに扮した自画像パリの一員としてピカソカリアティードや藤田嗣治とも親しく、ピカソのピエロシリーズに似た《ピエロに扮した自画像》(右絵)も描いています。その他にシャガール、マリー=ローランサンなどパリには才能ある画家たちが一堂に会していたわけで、「すごい!」の一言! モディリアーニの描く女性は喜怒哀楽の表情ははっきりとは見られませんが、何かしら寂しげでメランコリックな雰囲気を漂わせています。極貧のうちに35歳で結核で亡くなったモディリアーニ自身の心境が投影されているのかもしれません(モディリアーニの妻ジャンヌも彼の死後、投身自殺します)。本展覧会には女優のグレタ・ガルボが所有していた《少女の肖像》も本邦初公開で展示されていました。

売店で私の大好きなフランスの紅茶マリアージュ・フレールのフレーバーティー「マルコポーロ」(写真:限定デザイン装丁)が出ていたので、つい買ってしまいました。「ママルコポーロIMG_0003ルコポーロ」を飲みながら彼の生きた時代に思いを馳せたいと思います。コロナ禍やウクライナでの戦争が終結した暁には、フランスに行って、マレー地区にあるマリアージュ・フレールの本店に紅茶を買いに行きたいものです。

Written on 6月 23rd, 2022

IMG_0001学会のために3年ぶりに上京した折に、東京都美術館での「スコットランド国立美術館 美の巨匠たち」展(ポスター)を見に行ってきました。上野公園内にある美術館ですが、公園は多くの子供連れで賑わっていました。スコットランド美術館は1859年開館で、購入の他に篤志家による寄付や寄託に恵まれ、コレクションの拡充を図ってきたとのこと。今回の美術展では、ルネサンス(ラファエロ、パルミジャーノ、ヴェロネーゼ、エル・グレコなど)、バロック(ベラスケス、グイド・レーニ、ステーン、レンブラント、ルーベンス、クロード・ロランなど)、18世紀ロココ(ヴァトー、ブーシェ、グルーズ、レノルズなど)、19世紀の画家(ブレイク、アングル、コンスタブル、ターナー、ミレイ、コロー、ルノワール、ドガ、ホイッスラーなど)の絵画が時系列に展示されていました。その中でも印象に残ったのは、まず、ポスターにもあるイギリス人画家レノルズの《ウォルドグレイヴ家の貴婦人たち》。この絵はイギリスの大貴族ウォルドグレイヴ伯爵の3人の娘を描いたもので、中央が長女のエリザベス・ローラ(20歳)、右が次女のシャーロット・マリア(19歳)、左が三女のアンナ・ホラティア(18歳)で、この絵は彼女たちの大叔父のホレス・ウォルポールが注文したものだそうです。ホレスはイギリス・ゴシック小説の祖とされる『オトラント城奇譚』で有名な作家で、後に首相となる人物です。この絵は結婚適齢期の姪の良縁のために描かせた絵画とされ、「三美神」の構図で描くよう注文されたそうです。彼女たちは白い豪華な衣装を身に纏い、髪の毛には髪粉がたっぷりかけられて灰色(マリー・アントワネットの肖像画でも見る髪型と色)になっており、顔は真っ白のおしろい(この頃は鉛白が使われていた)に赤いチークが引かれているという18世紀の宮廷女性の出で立ちです。3人の女性は針仕事をしており、一説によれば、「三美神」というよりもギリシア神話に出てくる運命の糸を紡ぐ三人の女神を描いているともされています。いずれにせよ、18世紀当時の上流階級の女性たちの習俗がよくわかる絵となっています。

ベラスケスまた、ベラスケスが若い時に描いた《卵を料理する老婆》(右図)も印象に残りました。カラヴァッジョのような明暗を対比させた厨房画(ボデコン)が描かれ、老婆が卵料理(油の中に卵を割り入れ、油をかけて揚げるという料理)を作っているところが描かれ、それを少年が真剣な眼差しで見つめていまブーシェす。少年は右手には瓜、左手にはオリーブ油の入ったガラス瓶を手にしています。画面手前の食器などが丁寧に描かれていますが、二人は喜怒哀楽を見せることもなく、無表情な様子をしていて、日常生活の一コマを切り取った風俗画としては、何とも不思議な絵になっています。それに対して、ロコロの画家ブーシェの《田園の情景》三部作(左図)はいかにも牧歌的な愛情風景が描かれていています。19世紀のラファエル前派のミレイの《古来比類なき甘美な瞳》(右図)は、少し薄暗い花咲く野原をバックに、小花模様のミレイ服を着て、摘んだ花の入った籠をを持つ美少女が描かれています。やはり、印象的なのは彼女の澄んだ、まっすぐ前を凝視する「甘美な瞳」でありましょう。ミレイの有名なオフィーリアの絵(左図)と比べてもこの絵の少女の視線には強い意志が感じられます。ただ、こオフィーリアの絵のタイトルはブラウニングの詩の一節から来ているそうで、その詩は恋人との仲を親に反対されて若くして死ぬ娘を扱っているとのこと。彼女もまた、死ぬ運命にあるのでしょうか。しかし、オフィーリアと違い、自分の考えを貫き通し、自らの意志で死を選ぶ女性のような気もします。他にも気になる絵が幾つもありました。また、ヨーロッパ旅行が気楽にできる時期になれば、スコットランド美術館を直接、訪れたいものです。

Written on 6月 6th, 2022

先日、京セラ美術館に「ポンペイ展」を見に行ってきました。その前に高台寺ひらまつレストランで昼食を取ることに。連休中は京都もかなり賑わい、清水寺周辺は大変な人出だったそうです。連休が終わってから京都に行ったので、観光客はそれほどいなくて、修学旅行生がs-IMG_5069s-IMG_5070あちこちに見られるのが目立ったほどでした。2年坂から北の急坂を上がった所の建物の4階がレストランなので、八坂神社の塔が見える非常に見晴らしのいい場所となっています。料理はまず、カシューナッツのカラメリゼが出た後、前菜は「赤ピーマンのムース、フレッシュトマトのクーリー」(左写真)。赤ピーマンのムースがなめらかでとろけるような味。トマトをペースト状になる前に煮詰めたソースも濃厚でした。メインは「島根産天然的鯛のポワs-IMG_5071レとムール貝のマリニエール風」(右写真)。的鯛だけではなく、特にムール貝が小粒ながらおいしかったのと、アスパラガスの他にも春キャベツのエチュベ(蒸し煮)が春らしさを演出し、コキヤージュ(貝類)のムースリーヌ(泡立てた生クリームを加えたソース)がいい味を出していs-IMG_5072ました。次に出てきたのは「牛頬肉のエストゥファード(蒸し煮)、プチポワのピューレ」(左写真)。濃いソースでじっくり煮込んだ牛頬肉は柔らかく、周りに並べたフランス産のプチポワ(グリンピース)と空豆の緑が映えて見た目にもおいしそうでした。デザートは「京の雫 苺のヴァシュラン、ベルベーヌ香るアイスクリーム」(右写真)。ヴァシュランとはアイスクリームなどを詰めたメレンゲケーキのことで、容器型のメレンゲの中に苺がのったアイスクリームが入っていました。さらに、苺のソースをかけて食べるというもの。丸くて白いものは砂糖とのこと。非常に繊細で、見た目よりもあっさりして口に入れるとふわっと溶ける感じでした。2時間ゆっくり時間をかけて料理を頂き、京都の風景を満喫しました。

レストランから美術館までは、丸山公園の裏を通って徒歩で30分足らずなので、腹ごなしにはぴったりのコースでした。ポンペイは起源後79年にヴェスヴィオ山の噴火によって一瞬のうちに灰に埋まったイタリアの町で、18世紀に発掘が始まり、今でも発掘が続いているというポスター大きな遺跡です。美しいガラスの器や青銅の壺、s-IMG_5090宝石をちりばめた装身具の他にもパンやイチジク、干しブドウなど食べ物がそのまま炭化した状態で残っているのには驚きました。また、アポロン像は美しく、動物の彫像(右写真)は今にも動き出しそうな躍動感に溢れるものでした。特に、精巧なモザイクが印象に残りましたが、その中でも「メメント・モリ」(左写真)は、左に金持ちの贅沢な衣装、右には貧しい人の衣装がかけられ、真ん中に骸骨が鎮座していて富者にも貧者にも等しく「死」が訪れる、ということを表しています。しかし骸骨は少し猿にも似ていて滑稽で、パンフレットによれば「死と隣合わせ、だから今を楽しもう。古代ローマの人ヘタイラ生観を示す」ものだとか。また、ヘタイラ(高級遊女)の部屋を描いたモザイク(右写真)では、ヘタイラが男性にお酒をふるまっている場面が描かれています。ヘタイラは古代ギリシア時代からいた高級遊女で、高い教養の持ち主でプラトンなど哲学者の相手をしたと言われています。また、犬のモザイク(写真)は、家の玄関に敷かれた床モザイクで、「猛犬注意」という意味だそうで、ユーモラスに満ちています。家の模型もありましたメメントモリ1が、広大な屋敷で寝室が何部屋もあって、当時の市民の裕福さが窺えました(ただし、s-IMG_5085多くの奴隷を抱えていたわけですが)。実際にポンペイ遺跡を訪れてみたいものです。

久しぶりに京都の一日をたっぷり味わうことができました。

Written on 5月 12th, 2022

IMG_5050奈良市役所近くの佐保川沿いの桜並木を鑑賞に行ってきました。桜は満開で天気も晴れて、お花見日IMG_5055和でしたが、風がかなり強く手がかじかむほどの花冷えの一日となりました。佐保川の両岸に2キロ以上にわたって桜並木が続き、ゆっくり歩いて往復すること約1時間、桜を楽しみました。家族連れや友だち同士、犬を連れての散歩、とかなり多くの人が花見を楽しんでいました。この1か月、ロシアによるウクライナ侵攻で現地の悲惨な状況を見て、心を痛める毎日です。ウクライナにも早く平和が訪れて、ウクライナの人々が春の訪れを楽しめる日が来ることを願っています。

Written on 4月 2nd, 2022

3月8日は国際女性デーで、それに因んだシンポジウムが3月5日に日仏女性研究学会、日仏会館等の共催で17時から開催されましたが、同日に朝10時半から日仏美術学会主催のシンポジウム「マネへのオマージュ:画家を取り巻く人々」が開催され、どちらもオンライン開催であったため、両方のシンポジウム(最後までは時間的に聞けなかったので、その一部ですが)に参加しました。

まず、「マネへのオマージュ」(プログラム)では、一般的に印象派に区分されるエドゥワール・マネ(1832-1883)を中心に、第1セッションではマネと親しかった文学者(ゾラ、マラルメ)との関係、およびマネの絵のモデルともなった女性画家ベルト・モリゾとの関係、第2セッションではマネと親しかった画家ファンタン=ラトゥールとの関係、および画商マルティネとの関係についての発表があり、第3セッションではマネの死後1024px-MANET_-_Música_en_las_Tullerías_(National_Gallery,_Londres,_1862)の展覧会についての発表がありました。私は時間の都合で、第1,第2セッションのみに参加Edouard_Manet洗濯しましたが、どの発表も非常に興味深いものでした。その中で特に私が関心を持った発表について少し触れたいと思います。

マネの《草上の昼食》(1863)や《オランピア》(1865) が保守的な美術界で物議を醸し、ゾラがマネを擁護したことが有名ですが、吉田典子氏の発表は、1870年以降の二人の関係に焦点を当てたものでした。その中で特に面白かったのは、急進的な共和主義者のマネが描いた絵には、さりげなく赤、白、青のトリコロールが描き込まれているとのこと(例えば、左図の《チュイルリー公園の音楽会》の右下隅(椅子の下)にトリコロールの小さなボールがあります)。そして、1870年~77年に彼の685px-Edouard_Manet_-_The_Plum_-_National_Gallery_of_Art絵がサロンで落選し続けたのは、保守派政権の時代であったため、という政治的理由であったこと。ゾラの作品との関係については、ゾラの『ナナ』とマネの《ナナ》の相関関係が有名ですが、吉田氏によれば、ゾラの『居酒屋』において、マネの《洗濯》(右図)の影響で、ゾラが『居酒屋』の女主人公ジェルヴェーズの職業を洗濯女にしたとのこと。さらにマネの《プラム酒》(左図)では、女性が居酒屋でプラム酒の入ったグラスを前に片肘をついて物思いにふけっている場面が描かれていますが、ジェルベーズもプラム酒を飲む場面があるそうです。こうした民衆の日常を描いたマネの<自然主義シリーズ>の絵とゾラの作品が相関関係にあることがよくわかりました。

坂上桂子氏は、マネとベルト・モリゾとの関係について発表されました。氏によれば、これまで二人の737px-Edouard_Manet_-_The_Balcony_-_Google_Art_Project関係は「芸術家同士の交流という真面目な観点よりも、私的側面や男性の優位的立場から取り上げ」られることが多く、モリゾの芸術家としての価値が認識されるようになったのは最近だそうです。その理由としてまず、モリゾが画家として知られる前に、マネのモデルとして画壇に登場したことが挙げられます。確かに、《バルコニー》(右図)で左前景の椅子に座った彼女の姿は非常に印象的です(ちなみに、彼女の足元の犬の横にもトリコロールのボールがあります)。この絵では彼女が際立って詳細に描かれ、そのきりりとした眼差しが特徴的でmorisot.edma-pontillonす。彼女はマネの弟と結婚するまでにマネの15点ほどの作品のモデルとなっています。坂上氏によれば、初期(1868年頃)には彼女の表情にぎごちなさが見えますが、次第にリラックスした表情を見せるようになり、1874年頃には穏やかな表情をしているとのこと。ベルトは風景画家のコローに師事し、風景画を描いていたのが、マネと出会ってその影響を受けたそうです。彼女の姉を描いた絵(左図)では、マネの《バルコニー》と同様に白い衣装を着て扇子を持った女性が描かれています。しかし、姉のエドマはベルトと同じく画家を目指していたのが結婚して諦めざるを得なかったそうで、この絵は家庭に閉640px-Morisot_jeune_femme_se_poudrantじ込められた女性を表象しています。確かに《バルコニー》のベルトに比べてエドマの視線は下向きで、少し鬱屈した様子が窺えます。妹のベルトの方は幸い、夫のウジェーヌは彼女を理解し、画家としての妻を支援したそうです。当時はやはり、女性は夫の理解がなければ職業画家にはなれなかったことがよくわかりました。また、マネの《ナナ》では化粧をする娼婦(見る者に媚を売るような視線を投げかけている)が描かれていますが、モリゾの《化粧する若い女性》(右図)では、知的女性の背景が描き込まれ、女性の様子には全く媚が見出せません。これも男性と女性の視点の違いと言えるでしょう。坂上氏によれば、モリゾがマネの影響を受けたと同時に、モリゾの絵画の影響を受けたマネの絵もあるそうです。画家としてのモリゾは、マネのモデルという「客体」から芸術を創造する「能動的主体」になったという坂上氏の結論には非常に納得がいきました。

国際女性デー同じく3月5日に開催されたシンポジウム「フランスのフェミニズムを再考する―大革命期からパリテ法まで」(ポスター)では、第一部「フランスの女性運動の歴史」、第二部「フランスのフェミニズムとパリテの理念」、第三部「インタヴュー・レジャーヌ・セナック氏に聞く」、Women's_March_on_Versailles01第四部「討論、質疑応答」の構成で、17時から20時まで行われました。私は時間の都合で、第一部と第二部までの参加でしたが、このシンポジウムも非常に興味深く、大変勉強になりました。その一部を紹介します。

鳴子博子氏の「フランス革命期における女性の『能動化と排除』」ではまず、1789年10月に食糧の暴騰に反旗を翻し、パリの女性たちが国王ルイ16世のいるヴェルサイユ宮殿まで「パンを寄越せ」と叫びながら行進していった「ベルサイユ行進」(右図)への言及がありました。それは、男たちによるバスチーユ襲撃に比する「女の革命」で、一方が「権力の獲得」を目指した暴力革命であるのに対し、他方は「パンの獲得」を目指した非暴力的革命でありました。女性たちは「パン屋の親方とその女房小僧」(国王一家を意味する)をパリに連れ戻すのに成功しますが、それは私領域での問題を公領域に持ち出1104し、自らの主張を繰り広げて行動に移すというフェミニスト運動につながるものであったという指摘が大変面白かったです。1793年にはさらに、政治領域で活動する女性たちが作った革命共和女性協会が誕生します。彼女たちは男性のみに許された「赤い帽子(bonnet rouge)」(フリジア帽)(左図:左の男性がフリジア帽を被っている。「自由の木」の上にもフリジア帽)を女性も被る権利があると主張し、「赤い帽子運動」を展開します。しかし、運動は秩序を攪乱するものとして弾圧され、女性の政治クラブ等の閉鎖につながり、女性が公的空間から排除されるようになったということ。特に興味深いのは、「赤い帽子運動」は男性だけではなく、一般の女性からも共感を得られなかった点で、その尖鋭性ゆえに伝統的な家族規範から乖離していたためだそうです。フリジア帽はもともとは、古代ローマで解放された奴隷がかぶったもので、解放の象徴であり、女性が被ることで女性の解放を意味すると捉えられたからでありましょう。それと、「赤い帽子」の強制に反感を抱いた女性たちの態度は、コロナ禍の現在、マスク着用の強制に反発する欧米人の精神につながるのではないかと思えます。

saint_simoniensマルコ・ソッテーレ氏の「19世紀におけるサン=シモン主義とフェミニズム-女性サン=シモン主義者の声と活動に注目して―」は、「女性の解放」を唱えたサン=シモン主義(特に1830年代のアンファンタンを中心とするグループ)の思想に共鳴した女性サン=シモン主義者に焦点を当てたものでした。アンファンタンを始めとする男性サン=シモン主義者たちはメニルモンタンの僧院で一緒に暮らし、家事一切を男性メンバー自身が担ったことで有名(左図)ですが、結局、それは男性だけのホモソーシャルな空間に過ぎず、女性はそこから排除され、グループ内の位階制度からも除外されています。それに対してプロレタリアの女性サン=シモン主義者たち(彼女たちは「民衆の娘」と呼ばれたそうです)は『自由女性』という女性新聞を作って、「女性解放」を唱えました。ソッテーレ氏の発表は、こうした女性たちの宗教に対する言説に注目したものでした。当時の結婚制度は、ナポレオン法典213条(「夫は妻に保護の義務を負い、妻は夫に服従の義務を負う」)にあるように、夫は妻の保護者として妻を自らの監視下におくもので、カトリック教の教えもそれを促すものでありました。それに対して女性サン=シモン主義者たちは夫婦の平等関係に基づいた結婚を主張しました。彼女たちはキリスト教的道徳は女性を束縛するものとして否定し、新しい宗教を目指したとのこと。それは「女性による女性たちの宗教」で、グノーシス的な両性具有の神を想定(カトリックの神は「父=神、子=キリスト、精霊」からなる男の神で、聖母マリアは排除されている)し、聖母マリアが象徴する母性に聖性を見出し、具体的には母親に親権を与えるよう主張したそうです。そして、神は女性を通して平和を実現できるとして、公的、私的両領域に女性の居場所を求めました。ロシアのウクライナ侵攻による戦争が起こり、女性や子どもたちが一番の犠牲者となっている悲しい事実を目の当たりにしている今、「女性を通して平和を実現できる」という考えは、今でも当てはまるのではないかと思います。

辻村みよ子氏の「ジェンダー法学的視点からパリテの理念と意義を考える―グージュからパリテまで」は、フランス革命期に「人権宣言」(「法の下の平等」を謳っているが、女性はそこから排除されていた)に代わる「女権宣言」を唱えたオランプ・ド・グージュから20世紀後半のパリテ法まで、様々な統計データや法律を駆使した非常に中身の濃いものでした。フランスでも1970年代には女性議員比率はヨーロッパで最下位(約3%)であったのが、2000年のパリテ法の制定により、現在では比例代表選挙では男女ほぼ50%、小選挙区選挙では県議会50%、下院女性議員が約40%になったそうです。パリテを実現するために、例えば、一人区の選挙区二つを合併して2名とし、必ず男女2名の候補者を出すペア投票制を取っています。また、男女同数の候補者を出さない政党には政党交付金を大幅減額にすることで、目標を達成しようとしているとか。それに比べて日本の女性国会議員比率(衆議院で10%足らず)は世界で165位と、情けない状態です。やはり、日本でもパリテ法のような強制力のある法律を作らないと男女50%には近づかないでしょう。フランスの今後の課題は「質のパリテ」(議長などの要職はいまだに男性が多い)を目指すこと、さらにLGBTを配慮する現在、男女二元論では限界がある、とのこと。

以上、二つの違うシンポジウムを一日で拝聴したので、すべて理解できたか、心もとないのですが、どちらも示唆に富む有意義なシンポジウムでした。

Written on 3月 11th, 2022

先日、2泊3日で松本の白骨温泉と富山の大牧温泉に行ってきました。コロナが少し収束しつつあった12月にツアーを申し込んだのですが、オミクロン株がまた年明け早々に出てきて少し懸念しましたが、思い切って行くことに。大型バスに4人だけの参加者で、ソーシャルディスタンスをしっかり取って、ゆったり座ることができました。あいにく今冬一番の寒波に襲われ、大雪の中(高速道路ではホワイトアウトs-IMG_4938になるなど、運転手さんは大変だったと思います)の旅でしたが、金沢までのIMG_0001サンダーバードも止まることなく動いたので無事に予定地にたどり着くことができました。金沢からバスで4時間くらいかけて白骨温泉へ。上高地に向かう途中の高台のてっぺんにある「白船荘 新宅旅館」に一泊(左写真は、旅館の中から撮った雪と氷柱)。さっそく浴場に向かいましたが、更衣室からドアを開けると白い靄が一面に漂っていて何も見えない状態。ここのお湯は飲むこともできる(胃腸にいいとか)ということで、飲んでみました(翌朝の朝食には、温泉の湯を使ったおかゆがでてきました)。浴場から露天風呂(右写真)に出ることができますが、雪が吹き込んだ凍てつく石段を渡り、雪を踏みしs-IMG_4934s-IMG_4935て入りました。雪の積もった岩に囲まれ、ゆっくりお湯に浸かるのはやはり、気持ちの良いものでした。夕食の中でもお勧めの一品は、牛肉の朴葉味噌焼きで、牛肉の他にズッキーニ、舞茸、トウモロコシも一緒に味噌で焼いて食べましたが、絶品でした!また、異色なのは「林檎味噌グラタン」(写真)で、焼き林檎を器にして、中にしめじやむかご、海老、蟹、貝柱の入ったグラタンが詰まっていました。林檎の甘酸っぱさとあいまって絶妙な味。林檎の器も全て食べてしまいました。さらに、岩魚塩焼き(写真)は丸ごと齧り、「信州名物とうじ蕎麦」では、鴨肉や野菜の一杯入った鍋に蕎麦をしゃぶしゃぶのように入れて食べるというもの。地酒(白船、大雪渓、善哉)もゆっくり味わい、満腹状態。久しぶりの温泉とおいしい料理を満喫しました。

s-IMG_49692日目はまた雪道をバスでひたすら走り、高山へ。高山の古い町並み(左写真)s-IMG_4963を散策しましたが、大雪で観光客もほとんどなく、閑散としていました。「高山陣屋」を見学。屋敷には役人たちの集会所や台所、さらにはお白洲(右写真)もあり、時代劇を思い出しました。昼食は飛騨牛のすき焼き。その後、富山の大牧温泉へ。大牧温泉は江戸時代には庄川の河原の露天風呂だったそうですが、ダムが出来て泉源が水没したため、庄川の上流に建物を建て、1930年に「大牧温泉観光旅館」が誕生しました。旅館は陸路では行けず、船でしか行けないため、「陸の孤島」とも言われています。そのため、サスペンスドラマで舞台(密室状態での殺人事件)として使われることが多く、s-IMG_4980旅館の廊下の壁にはここに泊まった俳優たち(若林豪、船越英一郎、篠田三郎、片岡鶴太郎、平泉成、浅野ゆうこなど)のサイン入り色紙がずらっと並んでいました。雪が降りしきる中、16時発の最終便の船に乗り、両側が雪に覆われ、氷の浮かんだ川を渡ること30分で、旅館に着きました(写真)。雪の旅館は何とも風情があります。ここでもさっそく温泉に向かいましたが、露天風呂は何と、長靴をはいて雪の積もる階段を何段も上り、外で服を脱いで入るというもの(明るいうちに入らないと危ない!)。露天風呂に入った後、下に戻るまでに体が冷えるので、もう一度中の浴場に入り直しました。

3日目は五箇山、菅沼合掌造り集落へ。白川郷の合掌造り(雪が滑り落ちs-IMG_4993やすい勾配の三角形の大屋根を持つ)は有名ですが、五箇山も同じ造りで、昔はあまりに辺鄙な所なので、流人の地であったそうです。ここも雪が積もりすぎて、全体像が見えないほどでしたが、雪かきの大変さが身に染みてわかりました。雪道は歩きにくいと懸念していましたが、パウダースノウで湿気があまりないので、靴(一応、登山靴を履いていきました)は濡れることもありませんでしs-IMG_5020た。昼食は、高岡の寿司店「美喜多(みきだ)」で、富山湾でとれた握り寿司を頂きました(写真)。マグロ、イカ、ブリ、ヒラメ、バイ貝、甘えびなどの他にも富山名物の白エビ、さらにおいしかったのが、アジ! アジは普通、握り寿司には出てきませんが、さすが取れたての新鮮なアジなので全く臭みもなく、皆、舌鼓を打ちました。さらに大将お勧めの昆布締め(富山では何でも昆布締めにするとか)の平目、ゲソ(イカの足)も美味でした。昼食をお腹一杯食べた後、高岡大仏を見に行きました。高岡市はs-IMG_5029鋳物の町で、町の威信をかけて建立したのが大仏で、ビル街の一画にあります(写真)。与謝野晶子が鎌倉の大仏を見て「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」と歌ったことが有名ですが、その晶子が高岡大仏を見て「鎌倉大仏よりも美男子」と言ったそうです。確かにいいお顔をしています。

今回の旅は大雪の中の旅でしたが、一面の雪景色にコロナ禍の不満や束縛感から少し解き放たれたような気がいたしました。海外にも気楽に行ける日が来ることを心待ちにしています。

Written on 2月 28th, 2022

ジャンリス夫人信州大学人文学部主催のマルティーヌ・リード リール大学教授によるオンライン講演会「フェリシテ・ド・ジャンリスの生涯と作品案内」に参加させてもらいました(ポスター)。本来は、授業の一環で信州大学の学生さん、および教職員の方々限定でしたが、信州大学の先生方のご好意もあって、有志の一人として参加させてもらいました(講演の後の質疑応答での学生さんたちの鋭い質問には感心しました)。

ジャンリス夫人(1746-1830)は、オルレアン家の「養育係 (Gouverneur)」としてオルレアン家の子どもたちの教育を担ったことで有名で、彼女の教え子のルイ・フィリップは後に国王となっています。彼女はルイ15世時代からフランス革命を経て、ナポレオン帝政、王政復古、さらに7月革命も体験した激動の歴史の生き証人です。教育書だけではなく、革命後は歴史小説や子ども向けの本など多くの著作を出版し、女性作家としても活躍しました。ただ、今ではフランスでも忘れられた存在となっています。

今回のリード氏は、①ジャンリス夫人の生涯(とりわけオルレアン家の「養育係」について)、②ジャンリス夫人の教育プログラム、③ジャンリス夫人がなぜ、歴史に埋もれてしまったのか。の3つに分けて、わかりやすく解説してくれました。彼女がオルレアン家の子どもたち(自分の子どもや親族の子どもも含めて12人)のために、まずベルシャスに教育施設として建物を建設してもらい、寝室や食堂の壁には世界地図や年表を張り巡らし、英語を学ばせるためにイギリス人の二人の孤児を養子にして、子どもたちは二人と会話することで英語を習得、ドイツ人の庭師とは花を育てながらドイツ語を学ぶ、といった徹底的な英才教育を行いました。

Genlisハープの練習彼女の教育プログラムで特徴的なのは、男女ともほぼ同じ教育を施したこと(当時の女性は簡単な読み書き、ダンス、音楽に限られていました)、年齢に応じて読む本が体系的に決められていたこと、教養だけではなく体を鍛えることにも留意するなど多岐にわたる綿密なプログラムを構築したことです(彼女の実践した教育プログラムは『アデルとテオドール、または教育に関する書簡』に記されています)。夫人はハープの名手で、子どもたちに自らハープを教えました(右図:左からジャンリス夫人、アデライド・ドルレアン、養女のパメラ)。啓蒙思想に傾倒し、ルソーとも個人的な知り合いであったジャンリス夫人は、フランス革命が始まると、最初は革命精神に同調しますが、革命は次第に過激になり、オルレアン公やジャンリス夫人の夫も処刑されてしまいます。彼女は亡命を余儀なくされ、ヨーロッパを偽名で点々とした後、ナポレオン帝政期にやっと、パリに戻ることができました。熱心なカトリック信者であったため、宗教の復活を考えていたナポレオンには重用され、年金をもらうようになります。彼女は月に1度、彼に手紙で情報を送ることになったため、後に「ナポレオンのスパイ」と非難されますが、リード氏によれば、彼女が送っていた情報は文学や宗教、教育に関することのみであったようです。彼女は、自分の教え子が王位に就いた直後に亡くなっています。

3番目の問いの「なぜジャンリス夫人は忘れられてしまったのか」については、①彼女は当時、多くの本を出版し、ベストセラーであり過ぎたため、男性作家から攻撃を受け、その著作の価値が貶められた。②彼の教え子のルイ・フィリップが不人気であったこと、③彼女の宗教色が共和政になると敬遠されてしまったこと、などが挙げられるそうです。彼女の矛盾は、18世紀のフィロゾフに共感を抱きながら、フィロゾフたちが批判したカトリックの熱心な信者であったこと、彼女の書いた『フランス文学に対する女性の影響』では女性作家を擁護しているのに、小説の『女流作家』では良妻賢母的な姉は幸せになり、作家になった妹は不幸せな人生を送るという結末になっていること。リード氏によれば、それは彼女の「慎重さ」のなせる業とのこと。スタール夫人のように、ナポレオンと真っ向から対立して国外追放になったのとは対極であると言えるでしょう。ともあれ、彼女の著作は後の女性作家ジョルジュ・サンドに大きな影響を与えるほどで、彼女の復権が望まれます。リード氏は、ジャンリス夫人についての著作を刊行されているので、是非読んでみようと思っています。リード氏とは奈良や京都など、あちこち一緒に観光した親しい仲で、直接会える日が早く来ることを願っています。

Written on 2月 2nd, 2022

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