村田京子のホームページ – 著書(共著)

著書(共著)

表紙本書は、シャンソン研究会の設立20周年を機に、研究会のメンバーたちによる論文を学術図書として、科研費の助成を得て刊行したものである。(総頁324頁)

出版社のサイト(https://www.osaka-up.or.jp/book.php?isbn=978-4-87259-790-5)。以下、編者の吉田正明氏の「はじめに」の抜粋。

「日本においては、シャンソンの学術研究はいまだ立ち遅れていると言わざるを得ない。宝塚歌劇団のレビューやフランス映画の主題歌や挿入歌、あるいはラジオやレコードなどを通して日本に紹介されて以来、シャンソン・フランセーズは日本独自の音楽ジャンルとして発展し変容をとげたため、本来それが有していた歴史性や多様性を失い、フランスへの憧憬とともに、日本語に翻訳された歌詞(しばしば日本人の感性に合わせて大幅に書き換えられている場合もある)でうたう多くのシャンソン歌手や愛好家を生み出してはきたものの、サブカルチャーとしての側面がより際立つ結果となり、学術研究の対象とはなり得なかったからである。それゆえ20世紀以降のフランスの歌手や歌詞を紹介した書籍や雑誌などは多々見うけられるが、いずれも学術研究の水準に達しているとは言い難い。
このような状況のもと、日本におけるシャンソンの学術研究の基礎を築き発展を目指して2002年に立ち上げられたのが「シャンソン研究会」である。フランスにおけるシャンソン文化の歴史と内実を様々な角度から考察し、フランス文化史のなかに正当に位置づけ、かつ、それがどのような役割を果たしてきたのかを学際的に明らかにするため、これまでフランス文学、フランス語学、西洋史学、美学、音楽学など多彩な分野の研究者や専門家を本研究会に迎え入れてきた。

研究会設立20周年を機に、これまでの会員の優れた論考をまとめ、日本におけるシャンソンの学術研究の発展に寄与するため、日本学術振興会の研究成果公開促進費を獲得して出版されたのが本著である。ここに収められた論考は、19世紀から今日までのシャンソン・フランセーズをめぐる様々な視点からのアプローチであり、いずれも日本においてはほとんど扱われていない先駆的研究の数々である。本書は全部で11章からなっており、一定の形式上の統一を図った上で、文体については論者個々の判断に任せた。それがかえって個性豊かな論考となり、多彩なテーマとともに単調さを防ぎ読む楽しみを増しているとも言えよう。本書を通して読者諸氏が、民衆文化の花束たるシャンソン・フランセーズの魅力とその実相の一端に触れられんことを切に願うものである。」

目次

【担当部分】

村田京子「19世紀フランスの歌姫ポリーヌ・ヴィアルド」(pp.29-57)

本稿では、日本ではほとんど知られていないが、19世紀のヨーロッパにおいてその名を轟かし、20世紀のマリア・カラスのような存在であったオペラ歌手ポリーヌ・ヴィアルドの生涯を紹介した。当時のオペラ事情だけでなく、歴史的事件や音楽家(リスト、ショパン、マイヤベーア、ベルリオーズなど)や作家(ジョルジュ・サンド、ツルゲーネフなど)との交友関係にも着目し、当時のジェンダー観も考慮にいれながら、彼女が果たしたブルジョワ的オペラと庶民的なシャンソンとの橋渡し的役割を考察した。

著書

本書は、2021年9月24日、25日に日仏会館主催で行われたシンポジウム「文学作品に現れたフランス革命」(リモート開催)での7名の報告と討論をもとにした論集となっている(総頁244頁)。なお、白水社の雑誌「ふらんす」web版には、執筆者のうちの3人(三浦氏、西永氏、小野氏)の座談会が掲載されている(白水社のサイト参照)。以下、編著者の三浦信孝氏の「緒言」の抜粋。

「本書では、1789年7月14日のバスティーユ襲撃に始まるフランス革命の時期を実際に生きたスタール夫人とシャトーブリアン、1799年、革命のサイクルに終止符を打った「ブリュメール18日」のクーデタの直後に生まれ、ナポレオン帝政期(1804-14)と復古王政期(1815-30)に人となったバルザックとヴィクトール・ユゴー、そして1844年にフランス革命資料を専門とする古書店の息子として生まれ、ドレフュス事件と第一次大戦のあいだの1912年に「恐怖政治」を扱った小説を出版したアナトール・フランス、フランスより一回り下の世代だが、ドレフュス事件から両大戦間の人民戦線期にかけて『7月14日』から『ロベスピエール』まで「革命劇」連作8篇を書いたロマン・ロラン、そして私たちと同時代の作家シャンタル・トマが、マリー=アントワネットを主人公にバスティーユ陥落から三日間のヴェルサイユ最後の日々を回想した小説を取り上げる。

フランス革命は「自由・平等・友愛」を標語にするフランス共和国の出発点であり、革命をどう記述するかはフランスのナショナル・アイデンティティ構築の鍵を握るだけに、ジュール・ミシュレによる『フランス革命史』(1847-53)から今日に至るまで、歴史家による革命史は枚挙にいとまがない。[…]20世紀に入り、歴史資料にもとづく実証的な革命史研究が進むにつれ、科学としての歴史とフィクションとしての歴史小説は分離する傾向にあり、現代においてはユゴーの『93年』やアナトール・フランスの『神々は渇く』に匹敵する歴史小説は書きにくくなっている。[…]

しかし、ユゴーの『レ・ミゼラブル』がミュージカルになっても映画化されても、原作は圧倒的生命力を失っていない。活字文化にこだわる私たちは、革命史の専門家ではないが、フランス革命を主題として取り上げた7人の作家の文芸作品を通して、それぞれの世代にとってのフランス革命、ひいては現代の人間社会にとってのフランス革命を考える機会にしたいと思い、本書を編んだ。」

【目次】白水社サイト案内

【担当部分】

村田京子「第1章 スタール夫人はなぜ、ナポレオンの怒りを買ったのか――スタール夫人『デルフィーヌ』『コリンヌ』」(pp.13-43)

スタール夫人は、18世紀のアンシャン・レジーム期のフランスに生まれ、ルイ16世の財務総監ネッケルの娘として政治の最前線でフランス革命を体験し、革命末期に台頭してきたナポレオン・ボナパルトと対立して国外追放されるなど、激動の時代を生きた作家である。彼女は1793年にマリー=アントワネットを擁護する『王妃裁判についての省察』を出版して以来、政治に関する様々な論考を発表し、革命後も『フランス革命の主要事件に関する考察』を執筆するなど、政治的発信を行ってきた。小説に関しても、彼女の代表作『コリンヌ』は、ナポレオンによって国外追放されていた時期に執筆された作品で、彼女が国外追放の憂き目にあったのも、まさに前作『デルフィーヌ』がナポレオンの怒りを買ったためである。したがって、本章では『デルフィーヌ』『コリンヌ』を通して、スタール夫人における革命観を検証すると同時に、これらの著作によって、彼女がなぜナポレオンの怒りを買ったのか、その理由を考察した。

【本書に関する書評】

『日本経済新聞』(2022年9月10日、小倉孝誠氏)

著書

table des matières本書は、2017年6月19日~22日にフランスで開催されたジョルジュ・サンド国際シンポジウムGeorge Sand et le monde d’objets(「ジョルジュ・サンドとモノの世界」)〔6月19日、20日は、クレルモン=フェラン=オーベルニュ大学、6月21日、22日はサンドの故郷ノアンの館が会場〕で研究発表したものの一部を論文集としてまとめたものである。本書では、サンドの小説の中に登場するモノや、ノアンの館のサンドとゆかりのあるモノなど、モノを中心とする様々な分析が展開されている(村田はサンドの『ジャンヌ』において、女主人公が彫像=美術品に喩えられているその象徴的意味を探った)。総頁数510頁。【出版社へのリンク

【目次】(table des matières)

Présentation de l’éditeur

George Sand n’est ni sociologue ni peintre d’objets, et pourtant ces derniers ont beaucoup compté dans sa vie domestique et créatrice et, dès leur perception pre­mière, dans sa vision du monde. Ce livre montre la place qui fut la leur dans son quotidien et dans sa relation à l’écriture.

【担当部分】 Kyoko Murata : « Signification de la statue dans Jeanne » (pp. 311-326)

【要旨】(Résumé)

Dans le Prologue de Jeanne, trois jeunes hommes mettent chacun une pièce de monnaie dans une main d’une belle fille endormie qu’est Jeanne. Ces trois pièces ne sont pas simplement des choses, mais joueront un rôle symbolique, agissant sur leurs destinées aussi bien que sur celle de Jeanne. De plus, il y a un autre objet qui s’impose dans ce roman : une statue. Dans le Prologue, Jeanne est comparée à une statue antique. Comparer la beauté parfaite à une statue grecque, c’est un cliché qu’on utilise souvent dans les romans. Certes, mais Jeanne est surprise en plein sommeil et exposée sans défense au regard des trois hommes. Sa pose gracieuse avec son bras rejeté au-dessus de sa tête rappelle une statue de Vénus. Cette pose, communément associée au nu féminin, signifie un corps offert aux spectateurs. Cela nous permet de dire que ces hommes regardent Jeanne comme un objet d’art. Tout le long du roman, elle est comparée à de nombreuses statues telles que la Madeleine de Canova et la Galatée. Pourquoi Jeanne est-elle traitée si fréquemment comme une statue ? Nous nous proposons donc de vérifier la signification symbolique d’une statue dans ce roman, en tenant compte de celle des trois pièces de monnaie.

D’abord, nous allons traiter la scène où l’attitude de Jeanne, plongée dans la douleur, rappelle à Guillaume la Madeleine de Canova. Nous allons examiner pourquoi Sand a recours à cette statue, quelle est la différence entre les points de vue féminin (sandien) et masculin (balzacien) sur cette statue, et quel impact a cette image de Jeanne sur le Guillaume romanesque. Et puis, au travers de la Galatée, l’image que se fait de Jeanne Marsillat, avocat libéral et voltairien, nous allons voir la réification d’un corps féminin. Enfin, nous allons examiner comment Jeanne réagit contre les regards masculins et ce que signifie l’image de la statue pour elle-même.

【本書に関する書評】

Cahiers George Sand, No 44, 2022 (pp. 240-244 ; François Kerlouégan)

著書

感情の歴史本書は、アラン・コルバン、ジャン=ジャック・クルティーヌ、ジョルジュ・ヴィガレロ監修による『感情の歴史』(Histoire des émotions) 全3巻の、第Ⅰ巻『古代から啓蒙の時代まで』に続く第Ⅱ巻『啓蒙の時代から19世紀末まで』〔アラン・コルバン編、小倉孝誠監訳、総頁数669p.〕の翻訳書である(第Ⅲ巻は『19世紀末から現代まで』)。さらに、『感情の歴史』は、既に翻訳書が出ている『身体の歴史』『男らしさの歴史』に続く三部作の完結編ともなっている。本書は8人で翻訳を担当し、村田もその一員である。

「感情」は時代や文化、個人によってその現れ方が違う。本書の「総序」の一部を引用してみよう。「恐怖、恥辱、怒り、喜びはおそらくいつの時代にも観察されるし、一つの時代から別の時代になっても理解され、「把握される」ように思われるが、じつは個人によって、文化によって、感受性によって異なるのだ。これらの感情には独自の状態と変遷があり、変化し、個別化し、一般的に広く存在するとはいえ細分化された可能性を示す。」こうした「感情の歴史」を時系列的に様々な観点から探ったのが本書で、とりわけ19世紀は「感情の歴史」においてきわめて豊かな時代であった。すなわち、「繊細な魂の覚醒とそれに由来するものが、人々の感動のしかたや特異な感情のゆるやかな刷新によってきわめて特殊な時代を描きだす。こうして個人の内面であれ、自然と他者と社会を感じる新たな方法が生まれる」(「序文」より)時代であった。

本書は16章に分かれ、各専門分野の研究者による論文集となっている。その特徴は次のようなものだ。「内面性、私生活、気候、風景、革命、政治運動、戦争、死刑、宗教、芸術などは、いずれも文化史、社会史、政治史、制度史、宗教史、文化史、美術史の分野で研究され、見事な成果をあげてきた。それを個人と共同体の感情という視座から分析した本書の各章は、人間の歴史の新たな側面を浮き彫りにしてくれたのである。感情は個人レベルにとどまるものではなく、集団的な次元を有する。その境界線はしばしば微妙だが、感情の集団的次元に絶えず配慮しているのが本書の価値の一つであろう」(「監訳者解説」より)。さらにその分析の手段として自伝や回想録、手記、日記、書簡など「個人の内面性とプライバシーを伝える言説」(同上)を積極的に活用し、警察や司法関連資料など公的資料には見いだせない文学的要素と深く関わっていることも本書の特徴である。

【出版社サイト・目次】

【翻訳担当部分】

・アニェス・ヴァルシュ「第9章:感じやすい魂から感情の科学的出現へ――私的領域における感情の濃密化」(pp.309-340)

・ギヨーム・キュシェ「第14章:宗教的感情の刷新」(pp.471-511)

 

著書

sand et ideal本書は2013年6月20~22日にベルギーのLouvain-la-Neuveカトリック大学で開催されたジョルジュ・サンド国際シンポジウムで研究発表をしたものの一部を論文集として本にまとめたものである。サンドはバルザックを始めとするレアリストに対して理想主義者(idéaliste)として、世界のあるべき理想像を描いた作家とみなされている。本書は、サンドの小説や戯曲、自伝などを通して窺えるサンドの「理想」(理想の詩学、理想の芸術家像など)を様々な観点から探っている(村田は「理想の女性画家像」について論じている)。総頁数465p。(出版社へのリンク)

【目次】 (table des matières)

Présentation de l’éditeur

« J’ai besoin d’idéal » : cette confidence de George Sand peut servir de fil conducteur pour lire l’ensemble de son œuvre et en saisir l’unité comme recherche continue. Poétique, esthétique, morale, politique, religion : tous ces domaines sont autant d’occasions de formuler l’exigence d’idéal. La notion est obsédante, inquiétante, salvatrice. Quel peut être l’idéal ? Comment l’atteindre et comment le reconnaître si jamais il est là ? Toute page écrite par Sand peut être lue comme une étape de recherche dans l’éblouissement de ce grand mirage.

【担当部分】Kyoko Murata : « La figure idéal de la femme peintre dans l’œuvre de George Sand » (pp.379-388)

On peut trouver plusieurs œuvres de Sand, traitant de sujets artistiques. Sur la musique, on peut citer à titre d’exemple Consuelo, La Comtesse de Rudolstadt, et Les Maîtres sonneurs, et puis sur le théâtre, Lucrezia Floriani et Le Château des Désertes, enfin sur la peinture, Les Maîtres mosaïstes. Mais il y a une grande différence entre les romans de la musique et du théâtre, et ceux de la peinture : l’auteur dépeint Consuelo comme la figure idéale de musicien, ou traite de théâtre idéal dans Le Château des Désertes, alors que dans les romans où apparaissent les personnages-peintres, Sand ne nous montre pas nettement la figure idéale de peintre. Dans Les Maîtres mosaïstes, il s’agit d’une hiérarchie entre l’artisan (le mosaïste) et l’artiste (le peintre), et l’auteur fait ressortir plutôt le monde du premier. Quant au Paul d’Horace, malgré son talent, il renonce à devenir peintre pour nourrir ses sœurs et sa bien aimée. Cependant il existe une œuvre qui raconte le processus de croissance d’une enfant, celle qui deviendra une véritable peintre professionnelle : Le Château de Pictordu.

Bien que Le Château de Pictordu soit un conte merveilleux pour les enfants, on peut le considérer aussi comme un roman de la peinture. Ce qui est à remarquer chez Sand, c’est qu’il s’agit d’une femme peintre, et non pas d’un peintre masculin. Dans le mythe romantique de Pygmalion, la création artistique est réservée aux artistes masculins, ainsi dans l’œuvre balzacienne par exemple, les femmes ne jouent que le rôle de modèle ou celui de muse. Nous nous proposons donc d’analyser comment George Sand dépeint une femme peintre professionnelle et comment celle-ci atteint le « beau idéal », pour cerner la figure idéale de la femme peintre chez Sand. Pour ce, en dehors du Château de Pictordu, nous examinons aussi Elle et Lui, ouvrage qui est regardé en général comme un roman à clefs, concernant l’amour de Sand et de Musset, mais dont l’héroïne est peintre de portrait.

著書

本書は編集者の言葉を借りれば、「西洋美術史研究を中心として、ある時代の都市のアート・シーンについて考察しようとする学術論文集のシリーズ」で、「芸術生産の場としての都市」という観点から、19世紀のパリを取り上げたものである。また、本書は「都市という限定された空間を、芸術生産の原動力となる環境として積極的に捉え直し、従来の都市と美術のあり方を内側から書きかえること」を目指し、3つの視点―「越境性と社会的文脈」、「芸術家を含めた人やもの、情報の『混交』」、「アイデンティティ」―を意識し、美術史だけではなく、音楽、建築、文学、哲学など他の学問領域の専門家の論考も含んでいる。学問領域横断という本書の目的に基づき、美術史の専門家ではない村田も寄稿している次第である。様々な領域の専門家による学術論文集に今回初めて参加したが、それぞれが刺激的で示唆に富む論考で、今後の研究に大いに参考にさせて頂くつもりである。19世紀フランスは、テオフィル・ゴーティエやボードレール、ユイスマンス、ゴンクール兄弟のように、美術評を書く小説家・詩人や、フロマンタンにように絵を描く小説家を輩出している。演劇、バレエも盛んで、まさに様々な芸術・文化の混交が特徴で、パリはその中心であった。その点でも多角的な視野のもとにまとめられた本書はユニークなものであると言えよう。

【出版社サイト・目次】

【担当部分】

・村田京子:「ロマン主義的クルティザンヌからゾラのナナへ―19世紀フランス文学における娼婦像の変遷―」(pp.129-148)

自然主義作家エミール・ゾラの『ナナ』は、19世紀後半の第二帝政期フランスにおける娼婦像を描いた小説である。ゾラはこの小説において、ロマン主義時代に席巻した「恋するクルティザンヌ」の脱神話化を目指し、「真の娼婦」を描こうとした。本稿では、ロマン主義的クルティザンヌと一線を画すゾラの娼婦像を見極めるために、ロマン主義文学からゾラの『ナナ』に至る娼婦像の変遷を、それぞれの女性像に関わる絵画的表象と結びつけながら考察した。取り上げる作品はアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』、デュマ=フィスの『椿姫』、バルザックの『従妹ベット』などで、そこに描かれる娼婦像とゾラのナナとの根本的な違いを社会的背景を考慮に入れながら、明らかにしている。ゾラのナナについては、印象派のマネやルノワールなどの絵画との関連を探っている。

著書(共著)

Palacios, Concepción / Méndez, Pedro (éds.), Peter Lang (Bern, Berlin, Bruxelles, Frankfurt am Main, New York, Oxford, Wien), 366 p.

Espacios Literarios en Contacto. Tomo 4, Collección dirgida por Àngels Santa

本書はスペインの研究者グループを中心とする19世紀フランス中篇・短篇女性作家に関する研究論文集で、男性作家が大多数を占める19世紀フランスの文壇で、ともすれば歴史に埋もれがちな女性作家たちがエクリチュールを通してどのように自らの声を聞かせようとしたのかを探るものである。総勢22名の研究者による論文集で、スタール夫人やジョルジュ・サンド、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール、ルイーズ・コレのような比較的知名度の高い女性作家の他にも、ダブランテス伯爵夫人、アンナ・ド・ノアイユ、ラシルド(村田は女性ジャーナリストの草分け、デルフィーヌ・ド・ジラルダンを取り上げた)などを扱っている。

【目次】(Table des matières

Présentation de l’éditeur

Cet ouvrage collectif est une continuation d’une série d’études autour de la nouvelle en langue française publiées grâce à deux projets de recherche (Ministère de Science et Innovation Espagnol et Fondation «Séneca» de la Région de Murcia). L’approche des femmes qui ont écrit des nouvelles étant un aspect peu exploré et qui peut conduire à des découvertes intéressantes, les auteurs proposent cette fois-ci une monographie liée à l’idée de genre, avec l’objectif d’entreprendre de nouvelles pistes de recherche autour du récit court français. Les noms féminins n’abondent pas parmi les auteurs de nouvelles au XIXe siècle et leur production ne suppose qu’un très bas pourcentage de l’ensemble d’ouvrages répertoriés. À une époque où, dans le panorama scientifique et culturel, les figures phares sont des hommes, cette publication rattrape ces voix, ces sensibilités féminines oubliées, qui, de leur temps, se sont exprimées à travers la nouvelle. Bien que leur dévouement pour ce genre n’ait pas été le même et qu’elles aient été étiquetées par l’Histoire de la Littérature comme romancières, poétesses, dramaturges, journalistes ou tout simplement comme femmes de lettres, la réalité est que, de manière variable, beaucoup d’entre elles ont pratiqué le récit court.

【担当部分】 Kyoko Murata « Stratégie de l’écriture féminine chez Delphine de Girardin : Courrier de Paris » (pp.113-124)

Delphine de Girardin publie en 1836 La Canne de Balzac pour rendre hommage au génie de Balzac. Mais ce dernier, considérant cette   nouvelle comme « des mièvreries », lui recommande de franchir « cette désolante distance […] entre les deux sexes ». Cependant loin d’adapter une écriture virile pour faire « un grand, un beau livre », Delphine tiendra désormais à son écriture féminine dans le feuilleton intitulé « Courrier de Paris », situé au « rez-de-chaussée » de La Presse.

Dans cette étude, nous examinons à quelles stratégies médiatiques a recours Delphine de Girardin pour renverser la hiérarchie entre le Premier-Paris (la sphère des hommes), et le Feuilleton (celle des femmes).   D’abord, nous comparons le « Courrier de Paris » avec les  « Lettres sur Paris » de Balzac, qui servent de modèle du Courrier. Ensuite, nous analysons quelle fonction remplissent la structure mosaïque et le pseudonyme du vicomte Charles de Launay dans le « Courrier de Paris ».

【本書に関する書評】

Cédille. Revista de Estudios Franceses, Vol 10 (2014), pp.421-424 (Marta Ciné)

Thélème. Revista Complutense de Estudios Franceses, Vol 29, Núm. 2 (2014), pp.405-408 (Noëlle BENHAMOU)

 

著書

ジョルジュ・サンドについて現代の日本人は何を知っているだろうか。音楽家ショパンの恋人、男装の麗人、19世紀のフェミニスト・・・。波乱に満ちたその長い生涯が生み出した作品は膨大であり、日本語に翻訳されていないものも多い。だが、彼女の有名な田園小説『愛の妖精』や『魔の沼』は何度も訳されて版を重ねてきた。また、生誕200周年にあたる2004年以降、彼女の最大傑作とも言われる『歌姫コンシュエロ』や幻想宗教小説『スピリディオン』の翻訳が出版されて作家としてのサンドの知名度も上がってきている。しかも、日本におけるサンド研究は活発で、現在までに多くの伝記、研究書、論文などが発表されている。
2012年はわが国においてサンドの最初の翻訳単行本発行からちょうど100年という節目の年にあたる。そこで、日本ジョルジュ・サンド学会に所属する12名の執筆者たちは、過去の豊かな研究成果をふまえながら独自の花を咲かせている日本のサンド研究の一端をこの機会に示したいと願ったのであった。サンド作品の面白さ・奥深さを伝えたい、彼女の作品に描かれる近代フランスの光と影を詳しく検討することによって現代日本社会を再考するヒントにしたい、このような意気込みを持って3年がかりで完成させたのが本書である。
本書第1部では「男と女」、第2部では「芸術」、第3部では「自然」を中心テーマとしてサンド作品を様々な視点から掘り下げ、その多面的な作品世界を浮き彫りにしている。次に、ジョルジュ・サンドという人物やその作品の日本における受容史(研究史・翻訳史・伝記など)および翻訳リスト、年表などの資料が収められている。文学好きの一般読者だけではなく、仏文学研究者や、これからサンド研究を始めようとする人たちにとっても本書は貴重な一冊となることだろう。

【目次】

【担当部分】

●村田京子:「解釈の新しい視座 2.交差する芸術」第4章「絵画に喩えられた女性たち」 (pp.146-160)
サンドの作品には様々な絵画や画家の名前が見いだせるが、特に登場人物の身体的特徴や精神面を述べるポルトレ(人物描写)において、特定の絵画がしばしば援用されている。本章では、そうした「絵画に喩えられた女性」のポルトレ、とりわけラファエロやホルバインの聖母像を援用した人物描写を中心に、絵画に対するサンド独自の視点とそこから読み取れる女性像を検証する(取り上げる作品は『ローズとブランシュ』『アルバーノの娘』『イジドラ』『ジャンヌ』など)。ラファエロ、ホルバインの聖母像の他にもコレッジョの聖母像、カノーヴァの《マグダラのマリア》などにも言及している。
●坂本千代、西尾治子、村田京子:「受容の歴史 ジョルジュ・サンドと日本」第3章「研究史」 (pp.234-243)
日本におけるサンド研究の動向を第二次世界大戦後から現在に至るまで概観した。

【本書に関する書評】

PR誌10月号
日仏女性研究学会『女性情報ファイル』2012年9月号(吉川佳英子氏)
日本フランス語フランス文学会書評:cahier No.12, 2013年9月, pp.16-18(岩本和子氏)

著書(共著)

本書は大阪大学文学研究科柏木隆雄教授が2008年3月末に定年退職されたのを記念に刊行された論文集で、バルザック研究者および大阪大学の教員、大学院生(卒業生)など41名が寄稿し、フランス文学、フランス語学の最前線の研究成果を披露している。

【目次】

【担当部分】

村田京子:「隠喩としての図像―『人間喜劇』におけるポルトレ―」(pp.151-164)

バルザックの作品大系『人間喜劇』に登場する女性のポルトレ(人物描写)において、絵画がどのようなメタファーとして使われているのかを、ジェンダーの視点から検証している。特に、ラファエロやジロデ、ムリーリョ、デューラーなどの聖母像に喩えられた女性の登場人物がそれぞれ、どのような性質を付与されているのか、当時の社会背景を考慮に入れながら分析した。さらにラファエロ、ジロデの聖母に喩えられる女性を「窓辺の娘」の構図と関連づけて考察している。

著書(共著)

本書は、大阪府立大学と学術交流協定校セルジー・ポントワーズ大学(フランス)との共催で、2006年9月25日~27日にかけてセルジー・ポントワーズ大学で開催した国際シンポジウムで研究発表をした論文のうち、日仏の文化・文学の比較研究に特化して本にまとめたものである。

【担当部分】

●Kyoko MURATA : « Akiko Yosano et George Sand. Une même lutte pour la liberté et l’indépendance » (pp. 121-131)

Akiko Yosano (1878-1942) est un poète considéré comme un de meilleurs auteurs de poésie japonaise. Son premier recueil de tanka, poème de forme classique, Midaregami [Cheveux emmêlés] (1901) fit sensation à l’époque. Car dans cette œuvre, elle chanta avec audace les sentiments individuels et les désirs sensuels. D’autre part, George Sand (1804-1876) écrivit Indiana (1832) sous un pseudonyme masculin et souleva le scandale en France. Car dans son œuvre, elle remettait en question l’institution du mariage, sur laquelle se fondait la société patriarcale de l’époque.

Malgré l’écart dans le temps et l’espace, ces deux femmes révèlent des traits communs tels que le rejet des valeurs traditionnelles et l’aspiration à la liberté et à l’indépendance. Notre étude examine en quoi consiste la correspondance entre les deux femmes, japonaise et française.

著書(共著)

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