村田京子のホームページ – blog

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神戸市立美術館で開催されているプーシキン美術館展に行ってきました。17世紀古典主義、18世紀ロココ主義、19世紀の新古典主義、ロマン主義、自然主義および印象主義、20世紀のフォーヴィスム・キュビスム、エコール・ド・パリと17世紀から20世紀にかけてのフランス絵画史を網羅する作品展でした。展覧会の目玉のルノワールの《ジャンヌ・サマリーの肖像》でのピンク色の背景に夢見るような女性の表情は、想像した以上に明るい色調で魅力的でした。ブーシェの《ユピテルとカリスト》の鮮やかな青と赤の色調とその官能性、ゴッホの《医者レーの肖像》の青、緑、黄、オレンジの色鮮やかな配色の妙、アンリ・ルソーの《詩人に霊感を与えるミューズ》における詩人アポリネールとマリー・ローランサンのカップルの堂々とした姿(二人ともでっぷりとした体格で、現実のイメージとは違いますが)が印象に残りました。

その中でも 現在、関心を持っているテオフィル・ゴーチエとの関連で、  私が注目したのは、ドミニク・アングルの《聖杯を前にした聖母》(左図)と、ジェロームの《カンダウレス王》(右図)  でした。   ゴーチエがアングルを評価しているのは、その人物像の輪郭がはっきり定まっていることで、聖母マリアの顔、首、手の輪郭が浮かび上がって見えるこの絵はまさに、その典型と言えるでしょう。また、ジェロームの絵はゴーチエの小説「カンダウレス王」にインスピレーションを得て描いたものです。ゴーチエの小説は、ヘロドトスの『歴史』を典拠とした物語―古代リュディアの王カンダウレスがペルシアのニュシアを妻に迎えるが、その完璧な美しさを崇拝するあまり、「羞恥心」の強い妻に秘して部下のギュゲスを寝室に隠し、彼女の裸体の美しさを確かめさせるが、それに気付いたニュシアが王への復讐としてギュゲスに王を暗殺させる―で、ジェロームの絵は、ニュシアの美しい肉体をじっと見つめる王と、衝立の後ろに隠れたギュゲスに合図を送るニュシアの後ろ姿が描かれています。こうした緊迫した場面の中で、ニュシアの「輝くような裸体」を鑑賞者が覗き見することができる、という趣向となっています。

ちょうどゴーチエの小説を研究している時に、ジェロームのこの絵を間近にみることができ、本当に来てよかったと思った瞬間でした。

Written on 10月 17th, 2013

毎年、大阪府民に公開している授業公開講座の皆さんと総勢20名で、9月3日に箕面の川床料理を味わいに出かけました。前日から大雨で、当日も天気予報では雨でしたが、幸い、「晴れ女」が大挙して出かけたため、山道を歩いている間はほとんど雨が降らず、食事をしている間だけ、集中豪雨のような雨でした。「磯よし」という懐石料理のお店で、夏・秋に川沿いに張り出した席でお食事ができる、という趣向で、今回ははも尽くし(湯引きしたはも、はもの天ぷら、はも鍋など)の料理(はもは言うに及ばず、鍋のだし汁が絶品でした!)をいただきました。幹事の大住さんが差し入れて下さったワインともぴったりあって至福のひと時でした。食事が終わった頃、雨が止んだので、店から20分ほど山道を歩いて大滝見物。8月は猛暑のため、滝の水もだいぶ減っていたようですが、このところの雨で水量も多く、ものすごい勢いで迸る滝は迫力満点でした(マイナスイオンも十分味わった気がします)。夏の疲れが癒された一日でした(写真左は院生の井下さんと、右は公開講座聴講生の方々と大滝の前で)

Written on 10月 5th, 2013

6月23日にパリのオルセー美術館を訪問しました。日曜とあって、美術館の前は長蛇の列で、途中、雨が降る中、1時間待ちでやっと中に入れました。ちょうど、L’Ange du bizarre. Le romantisme noir de Goya a Max Ernstという特別展の最終日で、さっそく特別展を見てきました。悪魔や魔女、吸血鬼や怪物、幻想的風景を扱った暗黒小説的雰囲気の絵をゴヤやロマン主義のフュースリ、ユゴー、フリードリッヒ、ドラクロワ、象徴主義のギュスターヴ・モロー、 ムンク、ロップス、シュールレアリスムのエルンストやポール・クレーにいたるまでの怪しげな絵画を一堂に会し、非常に圧巻でした!最終日とあって、人でぎっしりで熱気溢れる美術展でした。   念願のローザ・ボヌールの《ニヴェルネー地方の耕作》(バルビゾン派のコーナーに展示されていました)も十分、見ることができました。ただ時間がなく、5階の印象派のコーナーを十分見ることができず、また次回見ることにしました。

L'Ange du bizarre     sLa Mort et le fossoyeur

 左はJulien Adolphe Duvocelle, Crâne aux yeux exorbités et mains agrippées à un mur (1904)

 《手で壁にしがみついた眼球が突出した骸骨》

 右は Carlos Schwabe, La Mort et le fossoyeur (1900) 《死神と墓掘り人夫》

 どちらも、なかなか迫力のある絵画で、右の絵は死神が「若い女性」というのが「宿命の女」風でした。

 

 

 

Written on 6月 29th, 2013

ローザ・ボヌール美術館(ビー城)

ローザ・ボヌールのアトリエ内部

 フォンテーヌブロー・アヴォン駅から1つ目の駅、トムリ駅から2,5キロのところにローザ・ボヌールがアトリエとして使い、約40年にわたって住んだビー城があります。ボヌールは女友達のナタリー・ミカとその母親と3人の女所帯で一つの家族として生きてきました。ナタリー亡き後はアメリカ人の肖像画家アンナ・クランプクと同居し、ボヌールの死後、クランプクが彼女の伝記を書いて後世の人々に彼女の記憶を残したばかりか、その作品を保存し、それが現在は美術館として公開されています。ボヌールは「男装の画家」として有名でしたが、彼女が愛用した青のスモックにズボン、帽子が保存されています。
 ボヌールは自らがモデルとした動物(鹿など)は剥製にしてアトリエ(トイレにも)に飾っていました。

インディアンの装束

ローザ・ボヌールの肖像画

 1889年のパリ万博の時に、その目玉としてアメリカのバッファロー一座のインディアン(ネイティヴ・アメリカン)・ショーが開催されました。ボヌールはバッファロー・ビルことコディ大佐と親しくなり、さらにインディアンたちに興味を持って、当時、レッド・スキンズと呼ばれていた彼らのテントに泊まり込んでそのデッサンを描きました。彼女は彼らを「白人の簒奪者によって絶滅する運命にある」種族とみなし、深い共感を抱いていたのです。彼らはボヌールへの感謝の印としてその装束一式を彼女に贈ったそうで、それがアトリエに展示されていました。右はアンナ・クランプクが描いたボヌールの肖像画。
 館の中庭は広い芝生となっていて奥には森に通じる小道があって、毎日ボヌールは森を散歩していたそうです。都会の喧騒から離れて、本当に静かで空気のきれいな所でした。
Written on 6月 29th, 2013

フォンテーヌブロー城

フォンテーヌブロー城図書館

 

2013年6月19日にフォンテーヌブロー城を訪れました。この城はフランス・ルネッサンスの発祥といわれる宮殿で、フランソワ1世の回廊が有名です。さらにはナポレオン1世、ナポレオン3世とウージェニー皇后が愛した城で、それぞれの間がすべて同じ模様に統一された布張りの椅子、タペストリーでその豪華さに目を奪われました。レオナルド・ダ・ヴィンチやフォンテーヌブロー派の絵画の数々が残され、ヴェルサイユ宮殿よりは素朴な感じで、ゆっくり回って見るのにちょうど良い規模の宮殿でした。城の中の図書館が充実していて、ここで何時間もゆっくり本を紐解いていたような気がします。

 

 

《オーヴェルニュ地方の干し草刈り》

このフォンテーヌブロー城には一般には公開されていない「ローザ・ボヌールの間」があり、ローザ・ボヌール友の会のフルキエ会長のご厚意により、特別に見せてもらいました。ボヌールの代表作《馬市》はニューヨークのメトロポリタン美術館に、《ニヴェルネー地方の耕作》はオルセー美術館にあります。フォンテーヌブロー城にはボヌールが動物を様々な角度から描いたデッサン(犬や猪、羊、ライオンなど)があり、それぞれ眼の表情が個性的です(ボヌールは「眼は魂の鏡」とみなし、眼の表情に力を入れていました)。大作としては、サロンで金賞を獲得した《オーヴェルニュ地方の干し草刈り》が保管されていました。ボヌールは人の顔はあまりはっきり描かないのが特徴ですが、この絵では知人男性を描いたそうで、非常に丁寧に顔の表情を描いています。

ローザ・ボヌールは19世紀後半ではフランスに限らず、イギリス、アメリカ全土にその名前が知れわたった著名な動物画家でしたが、今や忘れられた存在となっています。その復活を願って、ローザ・ボヌール友の会をフルキエさんが立ち上げたそうです。日本にも彼女の絵が展示されることを願っています。

Written on 6月 29th, 2013

大阪府立大学大学院 人間社会学研究科2014年版のパンフレット「越境する知」ができました。表紙および、「研究フォーラム」Focusとして、フェミニズム・クリティシズムの頁に私の紹介が掲載されましたので、その頁も掲載します。本研究科には専攻・領域を横断する形で「女性性」「男性性」を問う研究が行われています。院生の方は、自分の専門分野のみに特化せずに、幅広い知識を身につけてもらいたいと願っています。

Written on 4月 9th, 2013

 奈良女子大学文学部言語文化学科:ジェンダー言語文化学ブロジェクトのシンポジウム「私語りとジェンダー」(2012年12月18日開催)に参加しました。

講師は飯田祐子神戸女学院大学教授で、明治40年代の女性作家たちの「私小説」について、男性作家と比較する形で分析されました。男性作家の場合、まず自分自身を登場人物に投入することから始まり、次第に自らを主人公にし、三人称から一人称への語りへと変わって「自己表象小説」が形成される、ということで、飯田先生は、その過程を田山花袋や志賀直哉などの小説で確認した後、大塚楠緒子や野上八重子、森しげ(森鴎外の妻)や尾島菊子などの小説を順を追って説明され、男女の違いを浮き彫りにされました。特に興味深かったのは、「書けない」という同じ悩みに関しても、男性は机に向かって小説を書こうとするものの、言葉が浮かばない苦しみを描いているのに対して、女性の場合は「家庭内における愚にもつかぬ小さな渦巻きの中に巻き込まれて」書けないということでした。言い換えれば、男性にとって「書く」ことは特権的な行為であったのに対し、女性は生活に埋没して、執筆に集中できない状態にあったわけです。そして女性作家の場合、自己表象小説においても自らの本性をヴェールで隠さなければいけなかったことが、印象に残りました。

19世紀フランスの女性作家の場合、ジョルジュ・サンドやマリー・ダグー伯爵夫人など多くの女性作家が男のペンネームで書いた(当時、女性作家は、家事育児を顧みない文学かぶれの女と揶揄されため、自らの著作を公にする時には女の名ではなく、男の名を隠れ蓑にした)のに対し、日本の女性作家たちは本名で小説を書いたことは私にとって驚きでした。ただし、岡田八千代が「伊達虫子」という架空の自己を作りだして「八千代」の言えないことを「虫子」が大胆に書く、という設定の小説もあるようです。会場からは「短歌」では与謝野晶子のように、自らの激情をそのまま歌うことができるという指摘があり、短歌や俳句、小説というジャンルの違いについて活発な意見が交わされるなど、様々な質疑応答が出て、非常に有意義なシンポジウムでした。

Written on 12月 20th, 2012

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