村田京子のホームページ – 著書

著書

sand et ideal本書は2013年6月20~22日にベルギーのLouvain-la-Neuveカトリック大学で開催されたジョルジュ・サンド国際シンポジウムで研究発表をしたものの一部を論文集として本にまとめたものである。サンドはバルザックを始めとするレアリストに対して理想主義者(idéaliste)として、世界のあるべき理想像を描いた作家とみなされている。本書は、サンドの小説や戯曲、自伝などを通して窺えるサンドの「理想」(理想の詩学、理想の芸術家像など)を様々な観点から探っている(村田は「理想の女性画家像」について論じている)。総頁数465p。(出版社へのリンク)

【目次】 (table des matières)

Présentation de l’éditeur

« J’ai besoin d’idéal » : cette confidence de George Sand peut servir de fil conducteur pour lire l’ensemble de son œuvre et en saisir l’unité comme recherche continue. Poétique, esthétique, morale, politique, religion : tous ces domaines sont autant d’occasions de formuler l’exigence d’idéal. La notion est obsédante, inquiétante, salvatrice. Quel peut être l’idéal ? Comment l’atteindre et comment le reconnaître si jamais il est là ? Toute page écrite par Sand peut être lue comme une étape de recherche dans l’éblouissement de ce grand mirage.

【担当部分】Kyoko Murata : « La figure idéal de la femme peintre dans l’œuvre de George Sand » (pp.379-388)

On peut trouver plusieurs œuvres de Sand, traitant de sujets artistiques. Sur la musique, on peut citer à titre d’exemple Consuelo, La Comtesse de Rudolstadt, et Les Maîtres sonneurs, et puis sur le théâtre, Lucrezia Floriani et Le Château des Désertes, enfin sur la peinture, Les Maîtres mosaïstes. Mais il y a une grande différence entre les romans de la musique et du théâtre, et ceux de la peinture : l’auteur dépeint Consuelo comme la figure idéale de musicien, ou traite de théâtre idéal dans Le Château des Désertes, alors que dans les romans où apparaissent les personnages-peintres, Sand ne nous montre pas nettement la figure idéale de peintre. Dans Les Maîtres mosaïstes, il s’agit d’une hiérarchie entre l’artisan (le mosaïste) et l’artiste (le peintre), et l’auteur fait ressortir plutôt le monde du premier. Quant au Paul d’Horace, malgré son talent, il renonce à devenir peintre pour nourrir ses sœurs et son bien aimée. Cependant il existe une œuvre qui raconte le processus de croissance d’une enfant, celle qui deviendra une véritable peintre professionnelle : Le Château de Pictordu.

Bien que Le Château de Pictordu soit un conte merveilleux pour les enfants, on peut le considérer aussi comme un roman de la peinture. Ce qui est à remarquer chez Sand, c’est qu’il s’agit d’une femme peintre, et non pas d’un peintre masculin. Dans le mythe romantique de Pygmalion, la création artistique est réservée aux artistes masculins, ainsi dans l’œuvre balzacienne par exemple, les femmes ne jouent que le rôle de modèle ou celui de muse. Nous nous proposons donc d’analyser comment George Sand dépeint une femme peintre professionnelle et comment celle-ci atteint le « beau idéal », pour cerner la figure idéale de la femme peintre chez Sand. Pour ce, en dehors du Château de Pictordu, nous examinons aussi Elle et Lui, ouvrage qui est regardé en général comme un roman à clefs, concernant l’amour de Sand et de Musset, mais dont l’héroïne est peintre de portrait.

著書

総頁数  217 頁

目次

【概略】

フランス文学と芸術の関わりは深く、画家、音楽家、彫刻家を主人公とする芸術家小説をはじめとして、音楽や美術に関連する作品が多く見出せる。本書は、絵画がフランス・ロマン主義文学の中でどのように扱われているのかを探るものである。例えば「近代小説の祖」と呼ばれるバルザックは、女性を描写する際に、ラファエロの聖母像など絵画を引きあいに出すことがしばしばであった。しかし、人物描写において絵画を参照するようになるのは、実はバルザックの生きた時代、すなわち19世紀前半からに過ぎない。その理由として、①フランス革命後のルーヴル美術館の一般開放、②複製画やリトグラフ(石版画)の普及、③経済的に余裕のできたプチ・ブルジョワが文化的教養を求めたことの3点を挙げることができる。小説の読者である大衆にとって、絵画はより一層身近な存在となったわけだ。その結果、読者に登場人物のイメージを喚起させるために、絵画を比喩として使うことが可能になった。例えば小説の中で、「彼女はモナリザのような神秘的な微笑を口に浮かべていた」と表現するには、一般的な読者がレオナルド・ダ・ヴィンチの絵を知っていることが前提となる。

文学作品で絵画が言及される場合、それがどのようなメタファーとして使われているのか、見定める必要がある。そこには芸術的要素だけではなく社会的要素、とりわけ人物像には「男らしさ」「女らしさ」に関する当時の社会的通念が無意識のうちに投影されている。それゆえ、こうしたジェンダーの観点から、バルザックやテオフィル・ゴーチエ、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール、ジョルジュ・サンドらロマン主義作家の作品を取り上げ、絵画受容の相違点―とりわけ男性作家と女性作家の視点の違い―を浮き彫りにする。以上のように、本書では文学作品と絵画との相関性を探ることで、文学作品の新たな読解を試みていきたい。

【本書に関する書評・紹介記事】

『ふみのさと便り』21号(2015年3月21日:中村啓佑氏)

『ふらんす』(白水社)(2015年8月号:小倉孝誠氏)

日本フランス語フランス文学会cahier17(2016年3月:坂本千代氏、pp.33-34)

 

著書(単著)

本書は編集者の言葉を借りれば、「西洋美術史研究を中心として、ある時代の都市のアート・シーンについて考察しようとする学術論文集のシリーズ」で、「芸術生産の場としての都市」という観点から、19世紀のパリを取り上げたものである。また、本書は「都市という限定された空間を、芸術生産の原動力となる環境として積極的に捉え直し、従来の都市と美術のあり方を内側から書きかえること」を目指し、3つの視点―「越境性と社会的文脈」、「芸術家を含めた人やもの、情報の『混交』」、「アイデンティティ」―を意識し、美術史だけではなく、音楽、建築、文学、哲学など他の学問領域の専門家の論考も含んでいる。学問領域横断という本書の目的に基づき、美術史の専門家ではない村田も寄稿している次第である。様々な領域の専門家による学術論文集に今回初めて参加したが、それぞれが刺激的で示唆に富む論考で、今後の研究に大いに参考にさせて頂くつもりである。19世紀フランスは、テオフィル・ゴーティエやボードレール、ユイスマンス、ゴンクール兄弟のように、美術評を書く小説家・詩人や、フロマンタンにように絵を描く小説家を輩出している。演劇、バレエも盛んで、まさに様々な芸術・文化の混交が特徴で、パリはその中心であった。その点でも多角的な視野のもとにまとめられた本書はユニークなものであると言えよう。

【目次】

【担当部分】

・村田京子:「ロマン主義的クルティザンヌからゾラのナナへ―19世紀フランス文学における娼婦像の変遷―」(pp.129-148)

自然主義作家エミール・ゾラの『ナナ』は、19世紀後半の第二帝政期フランスにおける娼婦像を描いた小説である。ゾラはこの小説において、ロマン主義時代に席巻した「恋するクルティザンヌ」の脱神話化を目指し、「真の娼婦」を描こうとした。本稿では、ロマン主義的クルティザンヌと一線を画すゾラの娼婦像を見極めるために、ロマン主義文学からゾラの『ナナ』に至る娼婦像の変遷を、それぞれの女性像に関わる絵画的表象と結びつけながら考察した。取り上げる作品はアベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』、デュマ=フィスの『椿姫』、バルザックの『従妹ベット』などで、そこに描かれる娼婦像とゾラのナナとの根本的な違いを社会的背景を考慮に入れながら、明らかにしている。ゾラのナナについては、印象派のマネやルノワールなどの絵画との関連を探っている。

著書(共著)

Palacios, Concepción / Méndez, Pedro (éds.), Peter Lang (Bern, Berlin, Bruxelles, Frankfurt am Main, New York, Oxford, Wien), 366 p.

Espacios Literarios en Contacto. Tomo 4, Collección dirgida por Àngels Santa (リンク)

本書はスペインの研究者グループを中心とする19世紀フランス中篇・短篇女性作家に関する研究論文集で、男性作家が大多数を占める19世紀フランスの文壇で、ともすれば歴史に埋もれがちな女性作家たちがエクリチュールを通してどのように自らの声を聞かせようとしたのかを探るものである。総勢22名の研究者による論文集で、スタール夫人やジョルジュ・サンド、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール、ルイーズ・コレのような比較的知名度の高い女性作家の他にも、ダブランテス伯爵夫人、アンナ・ド・ノアイユ、ラシルド(村田は女性ジャーナリストの草分け、デルフィーヌ・ド・ジラルダンを取り上げた)などを扱っている。

【目次】(Table des matières)

Présentation de l’éditeur

Cet ouvrage collectif est une continuation d’une série d’études autour de la nouvelle en langue française publiées grâce à deux projets de recherche (Ministère de Science et Innovation Espagnol et Fondation «Séneca» de la Région de Murcia). L’approche des femmes qui ont écrit des nouvelles étant un aspect peu exploré et qui peut conduire à des découvertes intéressantes, les auteurs proposent cette fois-ci une monographie liée à l’idée de genre, avec l’objectif d’entreprendre de nouvelles pistes de recherche autour du récit court français. Les noms féminins n’abondent pas parmi les auteurs de nouvelles au XIXe siècle et leur production ne suppose qu’un très bas pourcentage de l’ensemble d’ouvrages répertoriés. À une époque où, dans le panorama scientifique et culturel, les figures phares sont des hommes, cette publication rattrape ces voix, ces sensibilités féminines oubliées, qui, de leur temps, se sont exprimées à travers la nouvelle. Bien que leur dévouement pour ce genre n’ait pas été le même et qu’elles aient été étiquetées par l’Histoire de la Littérature comme romancières, poétesses, dramaturges, journalistes ou tout simplement comme femmes de lettres, la réalité est que, de manière variable, beaucoup d’entre elles ont pratiqué le récit court.

【担当部分】 Kyoko Murata « Stratégie de l’écriture féminine chez Delphine de Girardin : Courrier de Paris » (pp.113-124)

Delphine de Girardin publie en 1836 La Canne de Balzac pour rendre hommage au génie de Balzac. Mais ce dernier, considérant cette   nouvelle comme « des mièvreries », lui recommande de franchir « cette désolante distance […] entre les deux sexes ». Cependant loin d’adapter une écriture virile pour faire « un grand, un beau livre », Delphine tiendra désormais à son écriture féminine dans le feuilleton intitulé « Courrier de Paris », situé au « rez-de-chaussée » de La Presse.

Dans cette étude, nous examinons à quelles stratégies médiatiques a recours Delphine de Girardin pour renverser la hiérarchie entre le Premier-Paris (la sphère des hommes), et le Feuilleton (celle des femmes).   D’abord, nous comparons le « Courrier de Paris » avec les  « Lettres sur Paris » de Balzac, qui servent de modèle du Courrier. Ensuite, nous analysons quelle fonction remplissent la structure mosaïque et le pseudonyme du vicomte Charles de Launay dans le « Courrier de Paris ».

【本書に関する書評】

Cédille. Revista de Estudios Franceses, Vol 10 (2014), pp.421-424 (Marta Ciné)

Thélème. Revista Complutense de Estudios Franceses, Vol 29, Núm. 2 (2014), pp.405-408 (Noëlle BENHAMOU)

 

著書

ジョルジュ・サンドについて現代の日本人は何を知っているだろうか。音楽家ショパンの恋人、男装の麗人、19世紀のフェミニスト・・・。波乱に満ちたその長い生涯が生み出した作品は膨大であり、日本語に翻訳されていないものも多い。だが、彼女の有名な田園小説『愛の妖精』や『魔の沼』は何度も訳されて版を重ねてきた。また、生誕200周年にあたる2004年以降、彼女の最大傑作とも言われる『歌姫コンシュエロ』や幻想宗教小説『スピリディオン』の翻訳が出版されて作家としてのサンドの知名度も上がってきている。しかも、日本におけるサンド研究は活発で、現在までに多くの伝記、研究書、論文などが発表されている。
2012年はわが国においてサンドの最初の翻訳単行本発行からちょうど100年という節目の年にあたる。そこで、日本ジョルジュ・サンド学会に所属する12名の執筆者たちは、過去の豊かな研究成果をふまえながら独自の花を咲かせている日本のサンド研究の一端をこの機会に示したいと願ったのであった。サンド作品の面白さ・奥深さを伝えたい、彼女の作品に描かれる近代フランスの光と影を詳しく検討することによって現代日本社会を再考するヒントにしたい、このような意気込みを持って3年がかりで完成させたのが本書である。
本書第1部では「男と女」、第2部では「芸術」、第3部では「自然」を中心テーマとしてサンド作品を様々な視点から掘り下げ、その多面的な作品世界を浮き彫りにしている。次に、ジョルジュ・サンドという人物やその作品の日本における受容史(研究史・翻訳史・伝記など)および翻訳リスト、年表などの資料が収められている。文学好きの一般読者だけではなく、仏文学研究者や、これからサンド研究を始めようとする人たちにとっても本書は貴重な一冊となることだろう。

【目次】

【担当部分】

●村田京子:「解釈の新しい視座 2.交差する芸術」第4章「絵画に喩えられた女性たち」 (pp.146-160)
サンドの作品には様々な絵画や画家の名前が見いだせるが、特に登場人物の身体的特徴や精神面を述べるポルトレ(人物描写)において、特定の絵画がしばしば援用されている。本章では、そうした「絵画に喩えられた女性」のポルトレ、とりわけラファエロやホルバインの聖母像を援用した人物描写を中心に、絵画に対するサンド独自の視点とそこから読み取れる女性像を検証する(取り上げる作品は『ローズとブランシュ』『アルバーノの娘』『イジドラ』『ジャンヌ』など)。ラファエロ、ホルバインの聖母像の他にもコレッジョの聖母像、カノーヴァの《マグダラのマリア》などにも言及している。
●坂本千代、西尾治子、村田京子:「受容の歴史 ジョルジュ・サンドと日本」第3章「研究史」 (pp.234-243)
日本におけるサンド研究の動向を第二次世界大戦後から現在に至るまで概観した。

【本書に関する書評】

PR誌10月号
日仏女性研究学会『女性情報ファイル』2012年9月号(吉川佳英子氏)
日本フランス語フランス文学会書評:cahier No.12, 2013年9月, pp.16-18(岩本和子氏)

著書(共著)

本書は大阪大学文学研究科柏木隆雄教授が2008年3月末に定年退職されたのを記念に刊行された論文集で、バルザック研究者および大阪大学の教員、大学院生(卒業生)など41名が寄稿し、フランス文学、フランス語学の最前線の研究成果を披露している。

【目次】

【担当部分】

村田京子:「隠喩としての図像―『人間喜劇』におけるポルトレ―」(pp.151-164)

バルザックの作品大系『人間喜劇』に登場する女性のポルトレ(人物描写)において、絵画がどのようなメタファーとして使われているのかを、ジェンダーの視点から検証している。特に、ラファエロやジロデ、ムリーリョ、デューラーなどの聖母像に喩えられた女性の登場人物がそれぞれ、どのような性質を付与されているのか、当時の社会背景を考慮に入れながら分析した。さらにラファエロ、ジロデの聖母に喩えられる女性を「窓辺の娘」の構図と関連づけて考察している。

著書(共著)

本書は、大阪府立大学と学術交流協定校セルジー・ポントワーズ大学(フランス)との共催で、2006年9月25日~27日にかけてセルジー・ポントワーズ大学で開催した国際シンポジウムで研究発表をした論文のうち、日仏の文化・文学の比較研究に特化して本にまとめたものである。

【担当部分】

●Kyoko MURATA : « Akiko Yosano et George Sand. Une même lutte pour la liberté et l’indépendance » (pp. 121-131)

Akiko Yosano (1878-1942) est un poète considéré comme un de meilleurs auteurs de poésie japonaise. Son premier recueil de tanka, poème de forme classique, Midaregami [Cheveux emmêlés] (1901) fit sensation à l’époque. Car dans cette œuvre, elle chanta avec audace les sentiments individuels et les désirs sensuels. D’autre part, George Sand (1804-1876) écrivit Indiana (1832) sous un pseudonyme masculin et souleva le scandale en France. Car dans son œuvre, elle remettait en question l’institution du mariage, sur laquelle se fondait la société patriarcale de l’époque.

Malgré l’écart dans le temps et l’espace, ces deux femmes révèlent des traits communs tels que le rejet des valeurs traditionnelles et l’aspiration à la liberté et à l’indépendance. Notre étude examine en quoi consiste la correspondance entre les deux femmes, japonaise et française.

著書(共著)

本書はジョルジュ・サンド生誕200年を記念して日本ジョルジュ・サンド学会が主催した「ジョルジュ・サンド国際シンポジウム」(2004年10月16日、17日、於 東京日仏会館)で研究発表を行ったサンド研究者15名の論文をまとめたもので、「政治」と「芸術」をメインテーマとしている。

【目次】(Table des Matières)

【担当部分】

●Kyoko MURATA : « La figure de la courtisane chez George Sand : Isidora » (pp.159-179)

La Dame aux camélias d’Alexandre Dumas fils (1848) compte parmi les œuvres les plus célèbres du monde entier. Cependant deux ans avant la publication de ce roman, il était déjà apparu dans l’espace romanesque une courtisane dénommée « la dame aux camélias ». Cette première dame aux camélias, c’était Isidora, héroïne de l’œuvre éponyme de George Sand. Il semble que Dumas fils et Sand se sont inspirés du même modèle réel qu’est Marie Duplessis. Mais il y a un écart considérable entre les figures de la courtisane dans ces deux romans.

L’enjeu de notre étude est donc d’analyser les différences entre la figure de la courtisane dépeinte du point de vue féminin et celle conçue par les écrivains masculins, dont notamment Alexandre Dumas fils, et de voir en quoi consistent ces différences.

著書(共著)

Présentation de l’éditeur

Balzac géographe pense le territoire. Il y mesure les changements de l’Histoire, les transformations économiques, les évolutions sociales. Historien des mœurs, Balzac repère aussi les petits territoires, fabriqués par des castes qui y affirment leur identité en excluant les intrus, occupés, eux, à en contester la clôture. On sait que l’auteur de La Comédie humaine, entre éthologie et sociologie, aime, à comparer les espèces sociales et animales. Aussi fallait-il la diversité des spécialistes ici réunis et la multiplication des points de vue pour cerner cette représentation complexe, qui va de la stratégie militaire à celle du boudoir, dans un va-et-vient constant entre espace public et espace privé. Tous les textes de Balzac ou presque, se trouvent convoqués, à commencer par l’Avant-propos, en confrontation avec les discours scientifiques de Cuvier, Geoffroy Saint-Hilaire, Malte-Brun ou Humboldt. Presque tous les romans : des Chouans, “scène de la vie militaire”, à La Recherche de l’Absolu et à Séraphîta, d’Albert Savarus au Curé de village et au Médecin de campagne, d’Une passion dans le désert à la trilogie provinciale des Célibataires – Pierrette, Le Curé de Tours, La Rabouilleuse. Paris, lieu de pouvoir par excellence, est omniprésent, car cette géographie est politique.

【目次】(Table des Matières)

【担当部分】

●MURATA Kyoko : « La structure symbolique du territoire dans Le Curé de village » (pp.149-158)

Dans Le Curé de village, Limoges et Montégnac, qui constituent le cadre du récit, sont décrits sous une forme symbolique. Dans l’affaire Tascheron, c’est sur la topologie de Limoges que s’articule l’énigme d’un crime. De plus, il existe une correspondance certaine entre l’habitation et les caractères de l’habitant. Surtout dans la seconde partie de cette œuvre, les landes infertiles et desséchées de Montégnac en viennent à constituer la métaphore par excellence l’âme désolée de Véronique. Et la fécondation de ce pays, qu’elle accomplit par les travaux de l’irrigation sous la direction du curé Bonnet, symbolise son repentir et l’expiation de sa faute.

De sorte que le territoire de Montégnac est généralement considéré comme l’univers utopique où s’opère le retour aux principes de la religion catholique, un retour des choses s’opposant à l’individualisme de la France libérale. Mai ce lieu utopique ne servirait-il donc qu’à donner une leçon religieuse ou édifiante au lecteur ? Il nous semble qu’une autre signification se cache dans les profondeurs de la topologie. Notre étude examine de quelle signification est investi le territoire de Montégnac.

【書評】

Nineteenth-Century French Studies, Volume 36, Number 3&4, Spring-Summer, 2008

著書(共著)

本書はパリをはじめとするフランス全土、さらにスイス、ロシア、ウクライナまで広がるバルザックの作品の舞台、および彼と関わりの深い土地を執筆者自らが現地に取材に赴き、本としてまとめたものである。特にパリの街歩きを楽しめる詳細ルートマップ付きで、文学の旅を満喫することができる。

目次

【担当部分】

●村田京子「パリ左岸西部」(pp.97-120)

ロダン美術館(ロダンのバルザック像)、フォブール・サン=ジェルマン(19世紀当時の由緒ある貴族の屋敷街)、ヴォルテール河岸、コンシエルジュリを取り上げ、これらの地区を舞台とした『あら皮』『知られざる傑作』『ゴリオ爺さん』『ランジェ公爵夫人』『娼婦盛衰記』の一節を紹介し、その解説を行っている。

●村田京子「フランス 南西部」(pp.267-300)

『村の司祭』の舞台となったリモージュの町を紹介し、バルザックの地理的描写の中に秘められた謎の解明を試みている。また、『幻滅』の舞台となったアングレームでは、主人公が辿った道を確認しながら小説を読み解くと同時に、現在は国際漫画フェスティヴァルの開催地として有名なアングレームの町並みを紹介している。最後に『結婚契約』の舞台となったボルドーの町と『人間喜劇』で言及されるワインに触れている。

【本著の紹介記事】
雑誌『サライ』(2003年)

 

著書(共著)

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