村田京子のホームページ – シンポジウム「マネへのオマージュ」と国際女性デー記念シンポジウム

3月8日は国際女性デーで、それに因んだシンポジウムが3月5日に日仏女性研究学会、日仏会館等の共催で17時から開催されましたが、同日に朝10時半から日仏美術学会主催のシンポジウム「マネへのオマージュ:画家を取り巻く人々」が開催され、どちらもオンライン開催であったため、両方のシンポジウム(最後までは時間的に聞けなかったので、その一部ですが)に参加しました。

まず、「マネへのオマージュ」(プログラム)では、一般的に印象派に区分されるエドゥワール・マネ(1832-1883)を中心に、第1セッションではマネと親しかった文学者(ゾラ、マラルメ)との関係、およびマネの絵のモデルともなった女性画家ベルト・モリゾとの関係、第2セッションではマネと親しかった画家ファンタン=ラトゥールとの関係、および画商マルティネとの関係についての発表があり、第3セッションではマネの死後1024px-MANET_-_Música_en_las_Tullerías_(National_Gallery,_Londres,_1862)の展覧会についての発表がありました。私は時間の都合で、第1,第2セッションのみに参加Edouard_Manet洗濯しましたが、どの発表も非常に興味深いものでした。その中で特に私が関心を持った発表について少し触れたいと思います。

マネの《草上の昼食》(1863)や《オランピア》(1865) が保守的な美術界で物議を醸し、ゾラがマネを擁護したことが有名ですが、吉田典子氏の発表は、1870年以降の二人の関係に焦点を当てたものでした。その中で特に面白かったのは、急進的な共和主義者のマネが描いた絵には、さりげなく赤、白、青のトリコロールが描き込まれているとのこと(例えば、左図の《チュイルリー公園の音楽会》の右下隅(椅子の下)にトリコロールの小さなボールがあります)。そして、1870年~77年に彼の685px-Edouard_Manet_-_The_Plum_-_National_Gallery_of_Art絵がサロンで落選し続けたのは、保守派政権の時代であったため、という政治的理由であったこと。ゾラの作品との関係については、ゾラの『ナナ』とマネの《ナナ》の相関関係が有名ですが、吉田氏によれば、ゾラの『居酒屋』において、マネの《洗濯》(右図)の影響で、ゾラが『居酒屋』の女主人公ジェルヴェーズの職業を洗濯女にしたとのこと。さらにマネの《プラム酒》(左図)では、女性が居酒屋でプラム酒の入ったグラスを前に片肘をついて物思いにふけっている場面が描かれていますが、ジェルベーズもプラム酒を飲む場面があるそうです。こうした民衆の日常を描いたマネの<自然主義シリーズ>の絵とゾラの作品が相関関係にあることがよくわかりました。

坂上桂子氏は、マネとベルト・モリゾとの関係について発表されました。氏によれば、これまで二人の737px-Edouard_Manet_-_The_Balcony_-_Google_Art_Project関係は「芸術家同士の交流という真面目な観点よりも、私的側面や男性の優位的立場から取り上げ」られることが多く、モリゾの芸術家としての価値が認識されるようになったのは最近だそうです。その理由としてまず、モリゾが画家として知られる前に、マネのモデルとして画壇に登場したことが挙げられます。確かに、《バルコニー》(右図)で左前景の椅子に座った彼女の姿は非常に印象的です(ちなみに、彼女の足元の犬の横にもトリコロールのボールがあります)。この絵では彼女が際立って詳細に描かれ、そのきりりとした眼差しが特徴的でmorisot.edma-pontillonす。彼女はマネの弟と結婚するまでにマネの15点ほどの作品のモデルとなっています。坂上氏によれば、初期(1868年頃)には彼女の表情にぎごちなさが見えますが、次第にリラックスした表情を見せるようになり、1874年頃には穏やかな表情をしているとのこと。ベルトは風景画家のコローに師事し、風景画を描いていたのが、マネと出会ってその影響を受けたそうです。彼女の姉を描いた絵(左図)では、マネの《バルコニー》と同様に白い衣装を着て扇子を持った女性が描かれています。しかし、姉のエドマはベルトと同じく画家を目指していたのが結婚して諦めざるを得なかったそうで、この絵は家庭に閉640px-Morisot_jeune_femme_se_poudrantじ込められた女性を表象しています。確かに《バルコニー》のベルトに比べてエドマの視線は下向きで、少し鬱屈した様子が窺えます。妹のベルトの方は幸い、夫のウジェーヌは彼女を理解し、画家としての妻を支援したそうです。当時はやはり、女性は夫の理解がなければ職業画家にはなれなかったことがよくわかりました。また、マネの《ナナ》では化粧をする娼婦(見る者に媚を売るような視線を投げかけている)が描かれていますが、モリゾの《化粧する若い女性》(右図)では、知的女性の背景が描き込まれ、女性の様子には全く媚が見出せません。これも男性と女性の視点の違いと言えるでしょう。坂上氏によれば、モリゾがマネの影響を受けたと同時に、モリゾの絵画の影響を受けたマネの絵もあるそうです。画家としてのモリゾは、マネのモデルという「客体」から芸術を創造する「能動的主体」になったという坂上氏の結論には非常に納得がいきました。

国際女性デー同じく3月5日に開催されたシンポジウム「フランスのフェミニズムを再考する―大革命期からパリテ法まで」(ポスター)では、第一部「フランスの女性運動の歴史」、第二部「フランスのフェミニズムとパリテの理念」、第三部「インタヴュー・レジャーヌ・セナック氏に聞く」、Women's_March_on_Versailles01第四部「討論、質疑応答」の構成で、17時から20時まで行われました。私は時間の都合で、第一部と第二部までの参加でしたが、このシンポジウムも非常に興味深く、大変勉強になりました。その一部を紹介します。

鳴子博子氏の「フランス革命期における女性の『能動化と排除』」ではまず、1789年10月に食糧の暴騰に反旗を翻し、パリの女性たちが国王ルイ16世のいるヴェルサイユ宮殿まで「パンを寄越せ」と叫びながら行進していった「ベルサイユ行進」(右図)への言及がありました。それは、男たちによるバスチーユ襲撃に比する「女の革命」で、一方が「権力の獲得」を目指した暴力革命であるのに対し、他方は「パンの獲得」を目指した非暴力的革命でありました。女性たちは「パン屋の親方とその女房小僧」(国王一家を意味する)をパリに連れ戻すのに成功しますが、それは私領域での問題を公領域に持ち出1104し、自らの主張を繰り広げて行動に移すというフェミニスト運動につながるものであったという指摘が大変面白かったです。1793年にはさらに、政治領域で活動する女性たちが作った革命共和女性協会が誕生します。彼女たちは男性のみに許された「赤い帽子(bonnet rouge)」(フリジア帽)(左図:左の男性がフリジア帽を被っている。「自由の木」の上にもフリジア帽)を女性も被る権利があると主張し、「赤い帽子運動」を展開します。しかし、運動は秩序を攪乱するものとして弾圧され、女性の政治クラブ等の閉鎖につながり、女性が公的空間から排除されるようになったということ。特に興味深いのは、「赤い帽子運動」は男性だけではなく、一般の女性からも共感を得られなかった点で、その尖鋭性ゆえに伝統的な家族規範から乖離していたためだそうです。フリジア帽はもともとは、古代ローマで解放された奴隷がかぶったもので、解放の象徴であり、女性が被ることで女性の解放を意味すると捉えられたからでありましょう。それと、「赤い帽子」の強制に反感を抱いた女性たちの態度は、コロナ禍の現在、マスク着用の強制に反発する欧米人の精神につながるのではないかと思えます。

saint_simoniensマルコ・ソッテーレ氏の「19世紀におけるサン=シモン主義とフェミニズム-女性サン=シモン主義者の声と活動に注目して―」は、「女性の解放」を唱えたサン=シモン主義(特に1830年代のアンファンタンを中心とするグループ)の思想に共鳴した女性サン=シモン主義者に焦点を当てたものでした。アンファンタンを始めとする男性サン=シモン主義者たちはメニルモンタンの僧院で一緒に暮らし、家事一切を男性メンバー自身が担ったことで有名(左図)ですが、結局、それは男性だけのホモソーシャルな空間に過ぎず、女性はそこから排除され、グループ内の位階制度からも除外されています。それに対してプロレタリアの女性サン=シモン主義者たち(彼女たちは「民衆の娘」と呼ばれたそうです)は『自由女性』という女性新聞を作って、「女性解放」を唱えました。ソッテーレ氏の発表は、こうした女性たちの宗教に対する言説に注目したものでした。当時の結婚制度は、ナポレオン法典213条(「夫は妻に保護の義務を負い、妻は夫に服従の義務を負う」)にあるように、夫は妻の保護者として妻を自らの監視下におくもので、カトリック教の教えもそれを促すものでありました。それに対して女性サン=シモン主義者たちは夫婦の平等関係に基づいた結婚を主張しました。彼女たちはキリスト教的道徳は女性を束縛するものとして否定し、新しい宗教を目指したとのこと。それは「女性による女性たちの宗教」で、グノーシス的な両性具有の神を想定(カトリックの神は「父=神、子=キリスト、精霊」からなる男の神で、聖母マリアは排除されている)し、聖母マリアが象徴する母性に聖性を見出し、具体的には母親に親権を与えるよう主張したそうです。そして、神は女性を通して平和を実現できるとして、公的、私的両領域に女性の居場所を求めました。ロシアのウクライナ侵攻による戦争が起こり、女性や子どもたちが一番の犠牲者となっている悲しい事実を目の当たりにしている今、「女性を通して平和を実現できる」という考えは、今でも当てはまるのではないかと思います。

辻村みよ子氏の「ジェンダー法学的視点からパリテの理念と意義を考える―グージュからパリテまで」は、フランス革命期に「人権宣言」(「法の下の平等」を謳っているが、女性はそこから排除されていた)に代わる「女権宣言」を唱えたオランプ・ド・グージュから20世紀後半のパリテ法まで、様々な統計データや法律を駆使した非常に中身の濃いものでした。フランスでも1970年代には女性議員比率はヨーロッパで最下位(約3%)であったのが、2000年のパリテ法の制定により、現在では比例代表選挙では男女ほぼ50%、小選挙区選挙では県議会50%、下院女性議員が約40%になったそうです。パリテを実現するために、例えば、一人区の選挙区二つを合併して2名とし、必ず男女2名の候補者を出すペア投票制を取っています。また、男女同数の候補者を出さない政党には政党交付金を大幅減額にすることで、目標を達成しようとしているとか。それに比べて日本の女性国会議員比率(衆議院で10%足らず)は世界で165位と、情けない状態です。やはり、日本でもパリテ法のような強制力のある法律を作らないと男女50%には近づかないでしょう。フランスの今後の課題は「質のパリテ」(議長などの要職はいまだに男性が多い)を目指すこと、さらにLGBTを配慮する現在、男女二元論では限界がある、とのこと。

以上、二つの違うシンポジウムを一日で拝聴したので、すべて理解できたか、心もとないのですが、どちらも示唆に富む有意義なシンポジウムでした。

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