村田京子のホームページ – 古代エジプト展とピピロッティ展

IMG_0001コロナ禍で休館していた京都の美術館が再開したので、先日、京セラ美術館で「古代エジプト展」を、その向いにある国立近代美術館で「ピピロッティ展」を二つ、はしごして見に行ってきました。エジプト展(ポスター)は時間指定予約で人数制限した中での鑑賞でしたが、結構、混んでいました(IMG_4873すべての陳列品が写真OKになっていたため、小さな副葬品でもその一つ一つを携帯で写真を撮る人が多く、なかなか人の波が動かないのが一つの原因でしょうか。私は目ぼしい作品を数点カメラに収めましたが、残りは眼でしっかりと確かめるに留めました)。「天地創造の神話」(ジャッカルの頭のアヌビス神(ミイラ作りの神)がアニメのキャラクターとなって説明してくれます)が本展覧会のテーマとなっていました。暗闇の混沌とした世界(ヌンと呼ばれる「原初の海」)から自力で出現したのが創造神アトゥムで、アトゥムは様々な神を生み出し、秩序ある世界が創造されます。これらの神々はヒヒやライオン、ハヤブサなど様々な動物の姿をまとい、《ヒヒを肩に乗せ、ひざまずく男性像》(右写真)のように、神と一体となった人間像も見られました(ヒヒは知恵の神でしょうか)。人間社会のリーダーがファラオですが、《ハトシェプスト女王のスフィンクス像》(左写真)などエジプトには女王が多く、後世にはクレオパトラIMG_4871が登場したように、昔のエジプトは、現在の日本よりも男女平等の世界だったのかもわかりません。人は死後、内臓を抜き取られてミイラとなるわけですが、死者は「死者の書」を携えて死後の世界に行き、「正義の広間」でオシリス神による死者の審判が行われるそうです。42人の神々から生前の行いを吟味され、死者の心臓と生前の行いが秤にかけられ、悪行の方が多いと心臓は消滅してしまうとか。無事、天国に行っても、仏教の極楽やキリスト教の天国のように美しい場所でゆったり過ごすのではなく、生前の生活を続ける(魚を捕ったり、畑を耕したり労働は欠かせない)そうです。ただ、精巧で色鮮やかで、金を散りばめたミイラ・マスクやカルトナージュには確かに「不滅への祈り」が込められていたと思います。その一方で世界自体は最後には滅び、再び混沌の世界に戻る(ただ、アトゥム神は消えずに混沌の海に潜んでいる)というエジプトの世界観も興味深いものです。

ピピロッティ一方、国立近代美術館では、現代の映像作家ピピロッティ・リストの展覧会(ポスター)が開催され、ジェンダーや身体、自然をテーマにしたカラフルなビデオ作品が展示されていました。その代表作「永遠は終わった、永遠はあらゆる場所に」では、花の形のハンマーを手にした女性が、楽し気げにIMG_0002街路を歩きながら、路上駐車している車のサイドガラスを叩き割っていきます(右写真上)。後ろから黒人の女性警官が近づいてきますが、女性の行為に驚くことも阻止しようともせず、ニヤリと笑って通り過ぎていく、というものでフェミニズムと深く関わっています。女性があまりに楽しそうなので、見ている方もやってみたいなと思ってしまうほど爽快感が広がります。逆に別のビデオではプールで潜っている女性が水の上に頭を出すと必ず沈められる、という動作が何度も繰り返される様子が映っており、それは女性の社会進出を阻む男性優位の社会への暗示でしょうか。また、経血で血みどろになる女性の映像などショッキングなものもありますが、女性が自らの身体や性を取り戻そうとする動きと関わっているようです。ピピロッティの作品には水が欠かせない要素(しかも、水の底から見た映像が多い)で、しかも右写真下のよIMG_4884うに、鑑賞者はベッドに寝転んで天井の映像を見るとか、面白い趣向が凝らされています。この展覧会自体が入り口で靴を脱いで入り、床に座ったり寝転がったり、ソファに腰掛けたりして鑑賞することになっていて、リラックスしてゆっくり映像を楽しむことができました。「アパートメント・インスタレーション」では、居住空間を模した空間で、ソファやベッドに座って家具に移る映像を見るようになっていて、食堂テーブル(左写真)が色鮮やかな光(少しどぎつい色ですが)で次々と照らし出されていくのを見るのも非常に面白かったです。

久しぶりの京都で、美術館にどっぷり浸かることができて楽しいひと時でした。

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