村田京子のホームページ – オンラインシンポジウム「室内 私空間の近代」

IMG_00011月24日のリアリズム文学研究会主催のオンラインシンポジウム「室内 私空間の近代」(ポスター)に参加しました。発表者は西洋美術史、フランス文学、アメリカ文学、日本文学専門の研究者4名で、まず、尾道市立大学の西嶋亜美氏が「19世紀フランス美術における「室内」の演出」という800px-Pompadour6タイトルで、多数の絵画を紹介しながら発表されました。まず、ドガの《室内》という問題作(別名《強姦》)について触れた後、私的空間を描く絵画として「風俗画」(庶民の日常生活を描いたもの)を取り上げ、17世紀のオランダ絵画(フェルメールやメツーなど)や18世紀のフランス絵画における室内表現について話をされJuliette_Récamier_(1777-1849)_Cました。また、18世紀から19世紀にかけて、歴史画や肖像画においても風俗画的な親密な場面設定や、時代考証に基づいた家具調度などが描き込まれ、過去の時代や異国の室内が再現されるようになったとのこと。さらに、ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人の肖像画(右図)では、机の上に啓蒙思想家たちの本が並び、足元にはスケッチ挟み、手には楽譜と1280px-Frédéric_Bazille_-_Bazille's_Studio_-_Google_Art_Project夫人の教養の高さを示しています。それは、19世紀のロマン派のミューズ、レカミエ夫人の肖像画(左図)でも同様で、後景には本の並んだ書棚、手前にはハープとピアノが描かれ、室内が住人の趣味や暮らし向きを表しています。そして、19世紀には「創造の場」として画家のアトリエが描かれるようになります。アトリエは創作の場であると同時に、画家や作家など友人たちが集まる社交の場となり、彼らとの交流が描かれています(例:印象派の画家バジールのアトリエ:右図)。画中には画家自身の絵が掛かっていたりして、その画中画を見るのも興味深いものです。西嶋氏のお話を伺っていて、こうした室内を描いた絵画に何が描き込まれているのか、それはどのような意味を持つのか、その「演出意図」を考えてみたくなりました。

次に青山学院大学の福田美雪氏が「近代フランスの芸術家小説が描く『創造の場』」というタイトルで、19世紀フランスの芸術家小説、バルザックの『知られざる傑作』、ゴンクール兄弟の『マネット・サロモン』、ゾラの『制作』を取り上げ、「創造の場」としてのアトリエに焦点を当てた発表をされました。福田氏は「アトリエは、画家が孤独に葛藤する「内的な空間」なのか、モデルやパトロンとの交流によって画家と外的世界をつなぐ「親密な空間」なのか、「創造の場」をめぐる作家たちの解釈を、時代の流れに沿って比較検討」されました。福田氏の発表で特に興味深かったのは、ヴィオレ=ル=デュク(パリのノートル・ダム寺院の、一昨年に焼失した尖塔部分を建築した建築家)が書いた小説では、主人公の建築家が建てる屋敷の見取り図が正確に描かれていた、ということ。その中で、①内と外を繋ぐ場:玄関、階段、バルコニー、②社交のための部屋:食堂、サロン、喫煙室、ビリヤード、温室、③親密な生活のための部屋:寝室、閨房、浴室、④人目から隠すべき部屋:女中部屋など、4つに分類され、室内でも「公的領域」と「私的領域」に分けられ、さらに喫煙室が男性専用で、閨房は逆に夫でも妻の許可なく入れないなど、男女の区別があることが非常に印象に残りました。

三番目に近畿大学の辻和彦氏が「Edgar Alan Poeと閉ざされた室内」というタイトルで、ポーが小説で描く「室内」の意味を彼の伝記的要素も考慮に入れながら考察されました。特に、推理小説の祖と言われるポーの4つの作品(フランス人探偵デュパンが活躍する『モルグ街の殺人』『マリー・ロジェの謎』『盗まれた手紙』、フランス系のユグノーのレグランドが探偵役で暗号小説の草分けと言われる『黄金虫』)がすべて、室内で事件が起こり、室内で謎が解決される、アームチェア探偵物である、という指摘が非常に心に残りました。ポー自身は貧しくて豪華な書斎とは生涯縁がなかったのに、彼の作品には「室内」が舞台となり、理想の「室内」についての論考もあるそうで、小説には絢爛豪華な家具が描かれています。ただ、ポーのデビュー作に無名の青年が部屋に閉じ込められる恐怖を描いたものがあり、それは、ポーと同じベッドで寝ていた兄のヘンリーが感染病で死亡(コレラの疑い)したことと関連しているのではないか、コレラによって部屋に閉じ込められたポー自身の心象風景が反映されている、というお話は、現在のコロナ禍で家に閉じ込められた私たちとも重なるでしょう。

最後に甲子園大学の浅井航洋氏が「明治期日本文学における《室内》表現」というタイトルで発表されました。江戸末期の戯作では、人物の動作や服装が最小限、語られるだけで会話が主となって進行していき、戯作につけられた挿絵の中で、室内が描かれているそうです。読者は、挿絵から室内の様子を読み取ることになり、作者の挿絵への関与が強く、言葉による指示があったそうです(挿絵は浮世絵師が描いたとか)。明治前期の小説においても、挿絵を前提としているために、景観や室内の視覚的描写は手薄だったのが、明治中期(坪内逍遥の『当世書生気質』)には、小説のbunko14_b0067_p0002室内描写は挿絵と概ね一致し、逍遥自筆の下絵には「障子が破れている」といった指示も書き込まれています(左図:逍遥の絵、なかなか味があって上手い!)。とりわけ二葉亭四迷の『浮雲』には、室内描写がその住人の性質を反映するようになり、部屋と住人との照応関係が見られるようになります。これは、フランスのバルザックの小説にも見出せるもので、近代小説の特徴とも言えるでしょう。そして、明治後期には「室内表現が背景や人物の説明のためではなく、それ自体が作品を構成するモチーフになる」ということで、日露戦争以降、自然主義文学の台頭の時期と重なるそうです(田山花袋の『蒲団』)。特に興味深かったのは、江戸の戯作と挿絵の関係、および日本家屋は西欧の家屋と比べて「個室」(=プライヴァシーの場)がなかったため、一人で閉じこもって内省する「個室」に憧れた(永井荷風など)という話で、日本と西欧の違いがよくわかりました。

以上のように、13時から18時すぎまでの長時間にわたる内容の濃い、充実したシンポジウムでした(PC画面を長時間見るのはかなり疲れましたが)。

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