村田京子のホームページ – シンポジウム「交通と文学」

シンポジウム1月12日に慶應義塾大学日吉キャンパスで開催された、リアリズム文学研究会主催の公開シンポジウム「交通と文学 鉄道の時代としての19世紀」(ポスター参照)に参加しました。今回はイギリス文学、スペイン文学、ロシア文学の研究者による発表で、産業革命が生みだした文明の新しい利器である鉄道が文学作品にどのような影響を与えたのかを探るものでした。

まず、木島菜菜子氏が「ディケンズと鉄道再考―魅力、幻影、恐怖」というタイトルで登壇されました。主にディケンズの『ドンビー父子』を取り上げ、跡取り息子を亡くしたドンビー氏が傷心の鉄道旅をする物語で、そこで描かれる鉄道は醜く破壊的な「怪物」として捉えられていること、またこれまでの乗り物(馬車)にないスピードによって、乗客は時と場所が混乱し、幻影(ファンタスマゴリア)を抱く、というもの。鉄道が人々の賛嘆と反発、憧れと恐怖の的という矛盾した要素を持っていることがディケンズの小説でも見出せること。また、『ドンビー父子』で描かれる鉄道が「死」の象徴でもあり、「幻影」を掻き立てるというよりも、鉄道バブルの崩壊を喚起させる無慈悲な現実を当時の読者に思いこさせる、という興味深い指摘もありました。

次の大楠栄三氏の発表「鉄道と風景―1868年世代のスペイン小説において」では、1868年世代のスペインの作家たちが小説の中で、鉄道をどのように描いているのか、探るものでした。まずスペイン鉄道史の簡単な説明がありましたが、スペインはイギリス、フランスに続き世界第3位の鉄道敷設率を誇っていたとか。大楠氏は、40作にのぼる小説の中で、「汽車」「駅」「車窓の風景」が描かれているかどうかで、星をつけ、2つ星または3つ星の作品を取り上げて説明されました。最初に出てくるのは1858年の新聞に掲載された鉄道ルポ記事で、ルポというよりも非常に詩的でリアル感に欠けていること、1864年の鉄道小説は、スピード感があり、動く風景が描かれているが、架空の鉄道旅であったこと、それは当時の時刻表などと照合すればわかる、というのが面白かったです。1880年代の小説になると、リアル感がまし、列車が通過する駅の名前が克明に羅列されていること、そして列車に乗り間違えたこと(または乗り遅れたこと)が引き金となって物語が展開する点が、馬車とは違う鉄道ならではの特徴であること。それはさらに、現在の推理小説にもあるような、時刻表を使った殺人事件にもつながるわけです。それと同時に、曲がりくねった鉄路を行く車両はしばしば「蛇」に喩えられていて、他の国の文学とも共通する点だと言えます。スペインの地図や時刻表などを駆使した楽しいご発表でした。

最後に乗松享平氏が「私的なものの侵犯=生成―トルストイと鉄道をめぐって」というタイトルの発表をされ、1860年~1870年代がロシアにおける第1次鉄道建設ブームにあたり、それはドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフという三人の巨匠を生み出したロシア文学の黄金時代と重なるとのこと。その中でトルストイの『アンナ・カレーニナ』は、映画などでもお馴染みのように、人妻のアンナが恋人のヴロンスキーと出会うのが鉄道事故によってであり、最後の場面が彼女の鉄道への飛び込み自殺で終わる、と鉄道が物語に大きな役割を果たしています。そこでは鉄道は「近代化の否定的象徴」として描かれ、さらに鉄道は、「風景からの孤立」「他の乗客からの孤立」を引き起こすというもの。ただ、『クロイツェル・ソナタ』では逆に、列車の中で濃い茶を飲むことで茶が麻薬代わりとなり、神経を興奮させて自己制御を失わせ、見ず知らずの乗客に私的な告白(市民的公共性の崩壊)をしてしまう、という指摘も興味深いものでした。特に印象に残ったのは、トルストイが最後の家出で病に倒れた時、押し寄せてくるメディアが彼の体温や脈拍、食欲など彼の身体的な症状を逐一漏らさずに発表し、作家の「私」が身体的なものに還元されてしまったというお話、さらにこうした詳細が報じられたのは、トルストイが鉄道を使って家出したことによる(鉄道は情報網の宝庫)―車での逃避行ならまた違っていただろう―というお話でした。

3人のご発表のあと、コメンテーターの小倉孝誠氏がフランス文学と鉄道の表象についてお話されましたが、小倉氏が指摘されているように、イギリス、スペイン、ロシア、フランスと国は違っても、鉄道が登場することによって、速度の認識が変わり、あまりに早くに目的地に着くために「空間の抹殺」が行われたこと、鉄道が「怪物」「蛇」など有機物に喩えられていること、個室(コンパートメント)=「密室空間」に閉ざされた乗客の恐怖、さらに鉄道が登場することで様々な階級の人間が一堂に会することになったこと(特に駅における匿名の群衆)など、共通点が多いと思います。さらに、もう一人のコメンテーターの奥山裕介氏はデンマークにおける鉄道ということで、デンマーク特有の「駅」の町についてのお話と、アンデルセンの鉄道への楽観的な認識(科学と芸術の調和を謳う)の紹介がありました。その後の全体討議でも、文学作品における馬車の旅と鉄道の旅の違いや、鉄道がもたらす身体的感覚について、など様々な質疑応答があって5時間に及ぶ長丁場となりました。特に、19世紀における様々な国における鉄道の受容や影響、その共通点や違いがわかり、非常に有意義な一日を過ごすことができました(参加者約50名)。 (リアリズム研究会報告:会報(1号)

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