村田京子のホームページ – ガブリエル・ウーヴル先生の講演

La_Bigne,_Valtesse200px-Édouard_Manet_-_Mademoiselle_Lucie_Delabigneパリ・ディドロ大学准教授のガブリエル・ウーブル先生の講演会2つに参加しました。まず、3月12日に共立女子大学で開催された講演(「恋人たちだけに」19世紀フランスの高級娼婦ヴァルテス・ドゥ・ラ・ヴィーニュ」の遺言書)では、ゾラの『ナナ』の女主人公のモデルの一人で、実在の高級娼婦(courtisane)の遺言書を手がかりに娼婦像を探るものでした。ドゥ・ラ・ヴィーニュは母親が洗濯女という庶民の出で、有名なオペレッタ作家オッフェンバックによって、舞台デビューを果たしますが、女優業は早くにやめて高級娼婦として生きた女性で、外交官や法曹界、高級将校や作家など様々な男性たちを顧客にして、最後には150万フラン(現在の日本円にして13億円)もの遺産を残した女性です。印象派の画家たちも彼女をモデルにした絵画を描き、ジェルヴェックスの《ヴァルテス・ドゥ・ラ・ヴィーニュ夫人》(左図)やマネの肖像画(右図)が有名です。彼女の源氏名Valtesseはvotre altesse(「殿下」を意味する)を連想させる発音で、さらに貴族の称号 deをつけていることからも彼女の貴族趣味が伺えます(『椿姫』のモデルになったマリー・デュプレシも「マリー・デュ・プレシ」と名乗っていました)。晩年はパリ郊外の大豪邸に住んでいたようです。高級娼婦といえども贅沢な暮しをするために、最後は借金だらけで貧困のうちに死ぬ(「椿姫」のように)イメージがありますが、ヴァルテスは「女実業家」として土地の投機に積極的に加担(ちょうど、19世紀後半はオスマンのパリ改造の時期にもあたっていたこともあり)したり、自らの肖像画を多く描かせて、高く転売したり、とお金儲けにもたけていたようです。さらに面白いのは、彼女が莫大な財産の分配を遺書に詳細に書いていることで、なかでも家族(二人の娘)はほぼ除外する形で、友人たち(男の友人が大部分)に分配していること。女性の遺贈者には貴族の女性も入っていますが、同性愛の女性であったそうで、ヴァルテスはバイ・セクシャルでもあったようです。同じ娼婦仲間も彼女の弟子であり、愛人でもあったとか。日本人の顧客(留学生)もいて、彼は奨学金をすべて彼女との交際につぎ込んだそうで、遺書には彼にお金を渡すように書いてあるそうです。お墓も壮大なモニュメントで、本来、墓は家族の墓であるべきところを二人の男性と一緒に入っているそうで、彼女の強い意志が感じられます。ウーブル先生がヴァルテスを気に入っているのは、他の高級娼婦のように結婚してブルジョワ化せずに最後まで高級娼婦として生きたことにある、ということです。非常に興味深い講演でした。

sIMG_4258続いて3月15日の奈良女子大におけるウーブル先生の講演会「19世紀フランスにおける「トランスジェンダー」」も拝聴しました(写真は演壇に立つウーブル先生)。19世紀フランスにおける「トランスジェンダー」は基本的には「travesti (異性装者)」という意味で使われ、とりわけ女性が男装することは基本的に禁じられ、警察から「異性装許可証」を認可してもらわないといけない状態でした。その中で、「自分が生まれた時に持っていたのとは異なる性にアイデンティティを見出し、それを選んだ」三人の人物(二人は女⇒男、一人は男⇒女)を取り上げ、彼らがどのように生きたのかを紹介するものでした。前者の女性たちはどちらも読み書きもできない貧しい階級の人たちで、それぞれ男の名前(フランソワ・デヴォ、ジャン・ガンバール)を名乗っていました。デヴォは正式に結婚し、死ぬまで夫婦として暮らし、自分の財産を妻に残すという遺書も書いているそうです(残念ながら、デヴォの死後、わずかな遺産もデヴォの親族に取られてしまったとのこと)。ジャン・ガンバールの方はさらに、二回も正式に結婚し、死後に女であったことが判明したそうです。逆に「女」として生きた男性、サヴァレット・ド・ランジュは名門貴族の私生児と偽り、死ぬまで女性とみなされ、医者が死亡診断書を書く時に男であったことが判明したとか。三人ともいとも簡単に「男」(または「女」)だとみなされたわけですが(特にサヴァレットは身長が1メートル68センチあり、当時の女性としては異常に背が高かったのですが全く怪しまれなかったそうです)、この頃は赤ん坊を取り上げるのは正規の医者ではなく産婆であり、男女の見分けがつかなかったこともあったようです。女性の場合、「男」になる方が社会的にも経済的にも(当時、女の賃金は男の半分でしかない)有利であったこともありますが、死ぬまで「男」として振舞ったのは、自らの性的志向に沿って「自由な主体として行為する」力を発揮したと考えられる、ということでした。

sIMG_4261sIMG_4262講演会の後、奈良町の町屋レストラン「omoya」でウーブル先生と夕食を共にしました。フレンチレストランですが、菜の花などの日本の食材を使い、味噌を使ったソースなど、和風フレンチとでも言える料理で、古都奈良にふさわしい料理でした。前菜は筍と豚肉、古代米のリゾット(左写真)。野菜のテリーヌ(右写真)は色鮮やか。メインは甘鯛のポワレと鹿児島産の牛肉(写真)でしたが、牛肉が絶品でウーブル先生も感動しsIMG_4264sIMG_4268ておられました。手毬寿司(写真)に味噌汁がでて、少し懐石風sIMG_4267でもあり、デザートは桜のブラマンジェ、ゼリーに梅ソース、ホワイトチョコの入ったシャーベット(写真)。季節感たっぷりの品で、器もシックで素敵でした。ウーブル先生は日本食が好きで、フランスでもよく召し上がるそうで、お箸の使い方も手慣れたものでした。今回の食事、すっかり満足されたようです(写真)

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