村田京子のホームページ – 藤田嗣治展

藤田藤田嗣治展(ポスター)を見に、京都国立近代美術館に行ってきました。金曜は夕方時間延長して開いているので、4時過ぎに美術館へ。おかげでそれほど混んでおらず、ゆっくり鑑賞することができました。藤田といえば、「乳白色の肌」で、ポスターの女性の顔や手に見られる美しい白のつるつるした独特の質感は藤田ならではの技術と言えるでしょう。彼がフランスに渡ったのは1913年、パリに着いてすぐにピカソの絵に衝撃を受け、キュビスムのような絵を描いています。それから風景画、静物画などを描いて修業をし、彼独自の「乳白色の肌」を生み出したのは1920年代、ちょうどベル・エポックまたは「狂乱の時代」と言われた時代で、パリの南側、fujitaモンパルナスには「エコール・ド・パリ」と呼ばれる様々な国籍の芸術家が集まりました。ピカソ、モジリアニ、ユトリロ、シャガール、スーチン、リベラ、ザッキン、レジェなど錚々たる画家たちが一堂に会しています。その中で他の画家とは違う色彩の絵を目指したのが藤田の「乳白色」であり、そ猫れがパリの画壇で認められることとなったわけです。それに引き換え、日本では彼の絵は評価されず、さらに第2次世界大戦で戦争画を描いたために戦後、戦犯扱いされて藤田は日本を離れ、晩年、フランスに帰化することになります。才能があればどの国の芸術家でも受け入れるパリと、この時代の偏狭な精神に溢れた日本との違いかもわかりません。戦犯扱いされた藤田ですが、その《アッツ島玉砕》などは戦争昂揚のためのものというよりも、戦争の悲惨な光景(断崖から飛び降りる人や、死者が折り重なる様子など)が描かれていて、むしろジェリコーの《メデューサ号の筏》やドラクロワの《キオス島の虐殺》を想起させます。恐らく藤田もジェリコーやドラクロワを目指したのではないかと思われますが、ただ彼らほどの迫力には至っていない気もします。中南米での絵画や日本で描いたものは作風も違い、茶色地のものが大半ですが、やはり「乳白色の下地」が藤田らしいと思います。彼は裸婦を多く描いていますが、裸婦の肌を引き立てる、花柄の装飾模様の布など、その背景も素晴らしいものです。今回、日本初公開の《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》(右図)は、背景に銀箔が使われ、「横長の画面は日本の障壁画を思わせる」とされています。青いドレスに黒字に金箔の刺繍が入ったベスト、さらに花柄のクッションが丁寧に描かれています。藤田の肖像画には猫がつきものですが、普通は日本猫なのに、この絵では黒猫となっています。また、《争闘(猫)》(左図)は、猛々しい猫たちの躍動感溢れる姿が描き出されています。1940年制作で、ちょうどナチス・ドイツが台頭していた時期にあたり、第2次世界大戦勃発後の世情を映し出したものと言えるでしょう。

sIMG_4131絵の鑑賞の後、近くの中華レストラン「静華」で夕食をとって帰りました。sIMG_4135この店は一見、フレンチレストランのようで、出てくる料理も非常に洒落ています。最初に出てきたアミューズ・グール(写真左)は、「桃の花の涙」、白クラゲに梨。また、一見、麻婆豆腐に見えるものが実は、豆腐の代わりにモッツォラレ・チーズであったり、ガチョウ肉になぞらえた湯葉とか、遊び心一杯の料理でした。特にきれいだったのが、鯛の刺身(写真右)。明石鯛の刺身にナッツ、きれいなsIMG_4139色のゼリー寄せがついています。また、牛肉に米粉をつけて揚げたものを野菜と一緒に蒸した蒸し物(写真)も珍しく(中国のsIMG_4141伝統的な家庭料理とか)、デザートはきれいな色のフルーツ・ティーにゴマ団子、シャインマスカットのジュレなど(その前に出た杏仁豆腐もすごく柔らかくで絶品でした!)。藤田の絵で眼を楽しませた後、おいしい食事も食べてすっかり満喫した一日でした。

HOME | PROFILE | 研究活動 | 教育活動 | 講演会・シンポジウム | BLOG | 関連サイト   PAGE TOP

© 2012 村田京子のホームページ All Rights Reserved.
Entries (RSS)

Professor Murata's site