村田京子のホームページ – 嘉穂劇場、伊藤伝右衛門邸、門司港レトロ

IMG_4012九州に来たついでに、嘉穂劇場へ。ここは、歌舞伎小屋としIMG_3995て昭和6年に建てられた劇場で、「桟敷」「木造桝席」「廻り舞台」(人力で動かす)などがある、全国でも数少ない劇場(金毘羅劇場など)の一つです(写真左)。当時の観客は、筑豊の石炭炭鉱の労働者とその家族が中心で、大衆演劇や歌手の公演などで賑わったそうで、当時のなつかしいポスターが所狭しと貼られていました。2003年に大雨によって劇場が被災した後、復旧イベントに有名芸能人たちが駆け付け、2004年9月に復興したそうで、すごくきれいな劇場でした。小道具部屋や奈落も見学でき、枡席(写真右)にも座ってみました。桝席は少しずつ傾斜していて、後ろの人も見えやすくしているそうです。海老蔵の公演も近々あるようで、観劇しながらつまむ駄菓子も売っていて、いかにも大衆の場という雰囲気でした。昔は炭鉱夫たちで連日の賑わいで、相撲の巡業もあったそうですが、現在は催しが減ったそうで、時代の流れとはいえ、なくならないで存続して欲しいものです。

白蓮伊藤邸次に、朝ドラの「花子とアン」で有名なった、炭鉱王伊藤伝右衛門の屋敷(写真)を見学しました。貧しい炭鉱夫から成り上がった伝右衛門が、大正天皇ともつながる高貴な家柄の美女、白蓮を後添えとして迎えるにあたり、彼女のために建てた屋敷で、四つの居住棟と三つの土蔵を持ち、池を配した広大な回遊式庭園(写真下)を持つ近代和風式豪邸(敷地面積、約2300坪、建物面積300坪)となっています。歌人として有名な白蓮(写真)は25歳の時に、兄の借金の形に無理やり50歳の伝右衛門の所に嫁がされ、10年間この屋敷にいましたが、竹久夢二の絵のモデルの女性とも言われ、当時の三大美女の一人でもありました。伝右衛門は、身長の低い彼女(140センチほどだったとか:彼は180センチ)のために、顔を洗う水場も低くし、トイレも日本初とも言える洗浄式トIMG_4018イレ、応接間のステンドグラスの白く光る部分はダイヤモンドをあつらえるなど、彼女を喜ばすことに気を配ったようです。そして白蓮の書斎(2階)からは美しい庭が一望でき、その部屋の階段横に小さな開き窓があり、そこから女中さんが食事を運ぶ(女中の顔を見ないで済む)ようになっていたとか(伝右衛門自身も、許可なく彼女の部屋には入れなかったとか)。柱一つとっても一本300万円もする木が使われているそうで、一つ一つが繊細で優美な装飾がなされていました。それでもやはり、白蓮としては、自分が「人形」のように扱われているようで(さらに、お妾さんや子どもたちも一緒に住んでいたので)、息苦しく「黄金の籠」に入れられているような気がしたのでしょう。若い宮崎青年と駆け落ちをして、夫に離縁状を新聞に載せる、という大胆な女性でもあり、彼女の肖像写真も強い意志が感じられるものとなっています。

門司最後に、門司港に寄り、レトロな建物を見て回りました。IMG_4037旧門司三井倶楽部(写真左)には、アインシュタインが宿泊した部屋のベッドや浴室が保存されており、さらに林芙美子記念室があり、彼女の『放浪記』にまつわるものや「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」という色紙もありました。旧門司税関(写真右)も、ちょうど港に面していて、素敵な雰囲気でした。昼食のコースの一つに「門司港名物焼きカレー」があり、カレーライスの上にチーズを載せてオーブンで焼いたもので、美味でした!宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した巌流島も近くにありましたが、残念ながら時間がなくて行けませんでした。お天気は汗ばむほどの暑さで、夏の最後を存分に満喫しました。

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