村田京子のホームページ – シンポジウム「私語りとジェンダー」に参加

 奈良女子大学文学部言語文化学科:ジェンダー言語文化学ブロジェクトのシンポジウム「私語りとジェンダー」(2012年12月18日開催)に参加しました。

講師は飯田祐子神戸女学院大学教授で、明治40年代の女性作家たちの「私小説」について、男性作家と比較する形で分析されました。男性作家の場合、まず自分自身を登場人物に投入することから始まり、次第に自らを主人公にし、三人称から一人称への語りへと変わって「自己表象小説」が形成される、ということで、飯田先生は、その過程を田山花袋や志賀直哉などの小説で確認した後、大塚楠緒子や野上八重子、森しげ(森鴎外の妻)や尾島菊子などの小説を順を追って説明され、男女の違いを浮き彫りにされました。特に興味深かったのは、「書けない」という同じ悩みに関しても、男性は机に向かって小説を書こうとするものの、言葉が浮かばない苦しみを描いているのに対して、女性の場合は「家庭内における愚にもつかぬ小さな渦巻きの中に巻き込まれて」書けないということでした。言い換えれば、男性にとって「書く」ことは特権的な行為であったのに対し、女性は生活に埋没して、執筆に集中できない状態にあったわけです。そして女性作家の場合、自己表象小説においても自らの本性をヴェールで隠さなければいけなかったことが、印象に残りました。

19世紀フランスの女性作家の場合、ジョルジュ・サンドやマリー・ダグー伯爵夫人など多くの女性作家が男のペンネームで書いた(当時、女性作家は、家事育児を顧みない文学かぶれの女と揶揄されため、自らの著作を公にする時には女の名ではなく、男の名を隠れ蓑にした)のに対し、日本の女性作家たちは本名で小説を書いたことは私にとって驚きでした。ただし、岡田八千代が「伊達虫子」という架空の自己を作りだして「八千代」の言えないことを「虫子」が大胆に書く、という設定の小説もあるようです。会場からは「短歌」では与謝野晶子のように、自らの激情をそのまま歌うことができるという指摘があり、短歌や俳句、小説というジャンルの違いについて活発な意見が交わされるなど、様々な質疑応答が出て、非常に有意義なシンポジウムでした。

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